鹿島美術研究 年報第21号
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にして聞かない。ただし最近、アメリカの研究者が、第二次大戦中の各国のプロパガンダ衣装の一部として日本の着物を展示しようという試みが知られる。日清戦争時に流行した明治20年代後半の錦絵風の戦争場面の襦袢については意図的なプロパガンダではなく、新奇な文様を求める当時のはげしい流行の中での「面白柄」にすぎないと申請者は考えている。第一次大戦後、プロパガンダに関する欧米の研究成果が日本でも翻訳され、研究書、啓蒙書も数多く出版された事情を見ると、この頃以降のものの一部はプロパガンダである可能性が認められるようにも思われる。ただし、軍部の目はいわゆる大芸術によるプロパガンダに向いていたことは確かである。庶民の衣類などの持つ力については眼中に入らないのが当時の高級官僚、職業軍人の限界だったのではないだろうか。また、着物の文様に表された戦争画は吉祥文様の一部であることが多い。近代の立身出世主義と結んだ戦争文様の生成を、残存する衣類、布地の断片を分析対象とすると同時に、商店の広告媒体(広報誌、ポスターなど)、雑誌記事、宣伝研究書などを精査して明らかにしようとするものである。⑳ 中国南北朝時代における青銅器の研究研究者:和泉市久保惣記念美術館主任学芸員橋詰文之本研究は南北朝時代の青銅器の実体を把握することを目的とする。器型の種類、製作技法の特徴、作品に備わった時代形式を明らかにすることで、殷から漢時代にいたる古代青銅器の時代の後、青銅器にどのような変化が起こったかという、中国工芸史上の転換点の状況を把握することができよう。特に、この時代に発生した、表面を饒轄挽きして整形する技術は、注目すべき点で、輔轄挽きするのに適した青銅合金の開発、この技術に伴って発生した器形の特徴、器面装飾に関する意識および青銅製品の価値の変化など、南北朝時代の工芸史にとって重要なテーマを浮かび上がらせてくれる。この輛轄挽き技法を有する青銅器の探求は、日本の6世紀の青銅器、さらには法隆寺献納宝物や正倉院の響銅器の源流を明らかにすることも期待できる。また、日本の水瓶や柄香炉などの仏器が、南北朝時代の青銅器から受けた影響を、より具体的につ-48-

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