鹿島美術研究 年報第21号
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て手薄な状態にある。そのなかで、開拓使に雇われた画工の存在も従来ほとんど知られてこなかった。1970年代から80年代にかけて、高倉新一郎氏、小野規矩夫氏の研究があるが、札幌本庁と函館支庁で雇われた画工の一部が紹介されているのみで、開拓使の政策・組織のなかの画工の役割・位置、それぞれの画工の伝記や画業について十分に考察が加えられたとは言えない。そのなかで近年、田島達也氏、加藤克氏、白石恵理氏、今村信隆氏らによって北海道大学植物園所蔵の絵画の調査研究が行われ、に開拓使東京出張所に雇われた画工について、その勤務実態と画業の一端が明らかにされてきた。しかし、この調査研究では、同植物園所蔵の絵画、特に鳥類図の成立を明らかにすることに主眼が置かれ、開拓使に雇われた画工の全体像を把握する研究は、まだ始められたばかりであると言える。以上のような研究史を受けて、本研究では、それらの成果に学びつつ、開拓使に雇われた画工について基礎的な史料・作品を集め、その全体像を把握しようとするものである。本研究の意義は、第一にそうした北海道美術史をめぐる研究史の空白を埋めることにある。また、近年、1872年に設置された新政府の博物館に雇われた服部雪齋らが描いた近代初期の博物画が注目を集めている。この博物画も新政府の殖産興業政策のなかで描かれたものである。北海道の「開拓」の進展という新政府の重要課題を背景に設置された開拓使も殖産興業政策には特に力を入れていたこと、開拓使が北海道のみではなく東京にも出張所を置いて「画エ」を雇用したことから、服部雪斎ら中央の画工の仕と何らかの関わりが想定される。ここから、開拓使の画工の研究は、一地方の事例研究に留まらない、さらに広い視野で近代初期の「画エ」の社会的位置・役割を明らかにし得るという意義も有している。さらには、これまで近代日本美術史のなかでいわゆる「画エ」は、その画業の実用性故に軽視されてきた傾向があると考えている。これまでの調査で、開拓使の画工を経た後に「美術展覧会」で活躍した人物の存在も判明してきた。当時の「美術」をめぐる状況をさらに農かに理解するためにも、「画エ」の伝記・画業の研究は重要な義を持つと考えている。-51-

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