鹿島美術研究 年報第21号
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(1668■1749)については画業の全貌が明らかにされていないが、1720年の『城崎温らかにした上で、いま一度、近代における「美術」の概念、あるいは「美術史」の成立を再検証することにある。よって、対象とするのは、従来、言及されてきた西洋の「美術」の受容という側面ではなく、江戸以来の価値観や学問的手法が継承・変容されながら、いかに近代的な学問成立と拮抗したかである。そこで、国学者・黒川真頼および小杉櫃祁による美術に関する論考に着目した。なぜなら両者は、江戸後期の極めて実証的な文献考証を受け継いだ論述を展開するなど、岡倉天心などによる近代的な美術史とは様相を異にするからである。なかでも「古物学」と称された小杉の論考は、「美術」を扱いながらも「考古」を目的としていた。また、黒川真頼が増補を担当した『増補考古画譜』は「画」に関する資料集成であり、明治15年(1882)から34年にかけて博物館より刊行されたが、明治期に行われた博物館主体の宝物調査・収集・修理・模写模造などの実地検分によって得られた貴重な作品情報が数多く盛り込まれている。とはいえ飽くまでも資料集成であり、江戸以前に編纂された画史画大伝が事実の羅列に過ぎないとして批判の対象となっていた当時においては、あまり評判にならなかったかもしれない。我国における最初のまとまった日本美術史として名高い『稿本日本帝国美術略史』(明治34年)とは極めて対極的と言えよう。前者が、あらゆる絵画資料の網羅を目指し、その資料の蓄積を主眼としたのに対し、後者は「美術」を抽出し、その歴史的変遷を語ることを目的としていた。しかしながら、近代的な美術史として評価の高い後者も、前者のような実証的研究に支えられている。或いは前代の学問を批判の対象とし、乗り越える対象として捉えることによって近代的な学問成立を促した向きもある。実際のところ、後者の編纂作業には黒川真頼や小杉椙祁も関わっており、単純な区分けは妥当ではないかもしれない。以上のような観点から、黒川・小杉らの美術に関する論考を明らかにすることで、明治20年代から30年代にかけての日本美術史成立期における、新旧の学問の比較検討を行いたいと考える。⑳初期文人画における勝景図巻の研究ーー百オ出元養を中心に一一—研究者:慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程出光佐千子予楽院の帰依の下、その文化サークルで中心的な役割を果たした黄漿僧、百拙元養、泉勝景図巻』は百拙が豊岡興国寺の住持の際、前年春に末代山温泉寺で滋養後、桃島-53 -

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