周辺に登り、明の銭礁の俳律を読み、目前の景色を描いた作品である。円山川に沿って豊岡から温泉寺を経由して日本海沿岸からはるか大陸を望むまでの、城崎の全景を捉え、百拙の作品中でも、臨場感にあふれた類例のない力作である。特に、名所の名称を墨書した貼込が図様の上に細部に亘りなされている点は、伝祇園南海の『紀州写生図巻』(1782年以前)と酷似する。という言葉は、1773年に京都鴨川における木村兼蔑堂による酒宴で、「画史」(『荘子』)の真を得る画家の法に倣い、解衣盤碑(自由な姿勢)して真景を写すと詠んだ大雅の詩に初出し、弟子の桑山玉i州著『絵事郡言』(1799年刊)では真景にこそ南画の優越性を求める。美術史上では「江戸時代の南画などで、特定の場所の写生に基づいた山水画に対する呼称。」(『世界美術辞典』、新潮社、1995年)と定義される。従って、真景といえば池大雅と弟子の研究が専らであり、大雅の前世代の文人画では画家自身が意識して用いた言葉ではないことから、真景的要素の萌芽についての研究は未だ少ない。黄漿僧とも交流のある狩野探幽のスケッチに既に真景図の萌芽が指摘(山下善也「探幽の作画にみる真景図の萌芽」『描かれた日本の風景』静岡県立美術館、1995年)される通り、百拙にも池大雅筆『陸奥奇勝図巻』に先立つ、文人画の真景図の萌芽が指摘(大槻幹郎『文人画家の譜』ぺりかん社、2001年)されているものの、造形的な分析はこれからの課題である。そこで、大雅の前世代の文人画で、実景を描いた画から、その作画手法を考察するために具体的な作例の一つとして、百拙元養筆『城崎温泉勝景図巻』を取り上げ、温泉寺の縁起絵、狩野派の地取図等を網羅的に調査し、図巻における図様の借用例を指摘し、その成立背景を明らかにする。さらに、紀行文学・実景に取材することで、観把握の特徴を明確にする、以上の調査から百拙元養の作品・作家研究に留まらず、真景図の持つ意味、さらにしたい。は18世紀に真景図が池大雅や弟子にとり重要な画題となった様相との関連も明らかに-54-
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