鹿島美術研究 年報第21号
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大きな役割を担ったのが、晩年期の探幽を中心とする江戸狩野派であった。一方、この寛文期は、文化の中心軸が京都から江戸へ移動し、文化の荷担者もから下層へと拡散しはじめるなど、江戸時代独自の、また新しい都・江戸根生いの文化が形成される〈江戸〉文化誕生の季節でもあった。こうしたなか、寛文期の江戸狩野派による新しい絵画も、この時期の出版文化の隆盛も手伝い、より広い層に吸収され、それは後の江戸絵画の歴史を豊饒なものにしていく。以上を踏まえ自己の研究では、寛文期の江戸狩野派による絵画制作を家綱政権の文化再編事業、就中林家サークルによる文化的営為に位置づけつつ考察し、〈江戸〉絵画誕生の一面を明らかにすることをテーマとする。なお寛文期には、文化再編事業の中核として六国史以来の正史である『本朝通鑑』が林鷲峰により編纂され、同時に徳川光閲により『大日本史』の編修も開始される。こうしたなか彼らやその周辺では、厖大な量の知的情報の蓄積を背景とした歴史意識が儒教精神に基づきつつ醸成され、それを視覚化した絵画作品も生み出される。そこで本調査研究では、それらの絵画作品を従来の武者絵や軍記絵巻などとは一線を画した新しいジャンルである〈歴史画〉として定義し、その史的意義を考察し、自己のテーマである寛文期の江戸狩野派研究に収敏していくことを目的とする。図高松松平家伝来博物図譜の研究研究者:香川県歴史博物館博物図譜は、江戸時代18世紀以降、本草学者や大名などが関わって数多く制作されたが、対象を科学的な視点から記録するという目的によって、画家以外の人物が描いたり、部分的な描写にとどまったり、文字情報を多く伴う例なども多く、鑑賞を目的とする美術作品とは異なる史料として主に研究されてきた。近年、美術史分野からの研究が行なわれる中で、図譜制作に狩野派の画家も関与したこと、また一部の図は「写生」という認識で正確に転写され継承されるなど、美術史学上で重視されてきた画派や言葉の意味を改めて広げる重要な内容も報告されている。また、浮世絵画家と博物図譜の深い影響関係を示す研究も増えており、美術史の立場から博物図譜に目を向けたことで、得られた成果は少なくない。本研究が対象とする高松松平家伝来の博物図譜は、五代藩主頼恭の命で制作され、松岡明子-59-

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