習パウル・クレーと舞踊ー一第一次世界大戦勃発までに描かれた踊る人物線描画を中心に一研究者:成城大学大学院文学研究科博士課程後期野田この調査により、クレーの線描論が完成されるまでの線描の発展が、1900年代に現れた新しい舞踊との取り組みから辿られる。クレーは1901-02年のイタリア旅行以来、こうした舞踊を意識的に見に行ったことが、彼の日記や手紙に記されている。また、クレーは画家としての初期段階で人物画と風景画に着手するが、その人物線描画の中でも、踊る人物像ないし、踊る舞踊家の像が数多く見られる。それ故、クレーの初期線描画の発展において舞踊は重要な意味を持っていたと考えられるが、その関係を体系的に辿った研究はこれまでになされていない。それ故、クレーが実際に見た舞踊に関する日記、手紙の記述に基づき、クレーが舞踊にいかなる線描の可能性を見出したのかを考察する。まず、クレーが実際に見た舞踊を巡る状況が、検証されなければならない。上述のイタリア旅行で、クレーは集中的に当時話題となった新舞踊を見ることになる。クレオ・ド・メロード、スペインのオテロとゲレロ、貞奴とその後援者のロイ・フラーである。さらに1904年に中国の軽業師とサアレ、12年にバレエ・リュスを見ることになる。その中で、貞奴を例に取ると、貞奴をクレーが見たということは従来の研究で言及されてきたが、実際にどの演目を見、貞奴の何に魅了され、その線描画に反映させたのかということや、クレーが知ることのできた貞奴についてのドイツでの芸術的反響については議論されたことがない。それ故、こうした舞踊を巡る状況を詳しく調査することにより、クレーの舞踊に関する線描画の意義が浮き彫りにされる。また、ドイツの芸術業界において新舞踊がいかなる影響力を及ぽしていたのかが検されなければならない。フラー、ダンカン、ルス・セント・デニス等の踊る姿が、当時誕生した様々なドイツ芸術雑誌で取り上げられ、その線描画の発展に貢献した。クレーがそうした雑誌を絶えず見、自らも線描画を掲載しようと努力していたことから、こうした線描画とその評論を調査することには意義がある。また、「サロメ」等に見られるオリエンタリズムとエロスについての問題がクレーの線描画にも反映されていることは、詳しく論じられたことがない。それ故、これらの点が詳しく調査されることにより、総じてクレーの線描画の特質が明らかになる。-67-
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