⑭ 明治期の日本近代水彩画の成立における英米美術との関係について研究者:府中市美術館学芸員志賀秀孝日本の初期洋画の成立期である明治10年〜30年代にかけて、日本洋画は主にフランスの印象派絵画の影響を基軸として語られることが一般である。ところが、江戸後期より西洋絵画の受容はすでに始まっており、フランス以外からもイギリスやアメリカといった国々の美術も日本に大きな影響を及ぽしてきた。しかし、こうしたヨーロッパ諸国以外の美術特に英語圏の諸国と明治洋画との関係は無視されたきた感がある。米人)は、東京の大学南校で教え、74年に帰国。アメリカ人に日本を紹介することに生涯情熱を持ち続けた人物として知られるが、1876年に『皇国』を出版し、欧米人の(1836-1907、仏人)は『東京日光散策』、同行した画家レガメは『日本素描紀行』を出版する。やはり1876年47オの英国人イザベラ・バード(1831-1904、英人)が7ヶ月日本に滞在し、東北・北海道を巡った。1880年にイギリスで出版した『日本奥地紀行』もまた大変な反響を得た日本の紀行本である。1877年から10年間日本に滞在したパーシバル・ローエル(1850-1916、米人)は1888年『極東の魂』を出版した。以降英米人で日本紹介したバジル・H・チェンバレン『日本事物誌』(1890年発行)、ラフカディオ・ハーン(アイルランド)『知られぬ日本の面影』(1894年発行)、フレイザ一夫人(米人)『日本における外交官の妻』(1899年発行)などが知られている。以上のように明治10年代から米英の日本に対する興味は、好奇と親愛に満ちていたことが理解される。美術の上では、黒田清輝の明治26年の帰国によって外光表現の移入が近代西洋画受容の転換期とされている。無論、筆者主催の展覧会『もうひとつの明治美術』展でも紹介したように、明治10年代の画家たちも旺盛に西洋美術を学んでいた。そのなかでも英米圏の美術との関わりを散見することができる。例えば、水彩画の発展に関しては、吉田博らの米国訪問は、上記紀行文で紹介される日本の美しい風土・風俗を証明する絶好の機会であった。しかし、この時、吉田ら日本の画家達もまた米国美術にふれ、ホイッスラーなどの画風を受容し、日本の水彩画に新たな画風を与えている。また、浅井忠らの印象派理解は、フランスではあるがグレー村においての英語を介しての北欧・米国の画家達との交流は見逃せない。しかし、こうした日日本理解の源泉となった。1876年の夏3ヶ月ほど日本に滞在したエミール•E・ギメ1870年福井の化学教師として来日したウィリアム•E・グリフィス(1843-1928、-72 -
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