―16―発表者:早稲田大学 非常勤講師 岡 戸 敏 幸言葉に導かれつつ、彼が手に取り眺めていた画譜そのものを鑑賞することで、子規のそれらの多くが江戸期の原刊本ではなく、明治以降の再摺本である。加えて『光琳画式』、『鶯邨画譜』といった江戸の代表的画譜と並び、渡辺南岳・河村文鳳『南岳文鳳手競画譜』、上田公長『公長略画』といった、今日の美術史的評価の枠組みからはこぼれ落ちてしまう画譜も数多く含まれている。これらの事実が、子規の鑑賞眼の評価を曖昧にし、その再考を妨げる要因となったと考えられるが、視点を変えれば、その点にこそ子規鑑賞の特質が隠されている。それはひとり子規の問題に留まらず、広く十九世紀絵画鑑賞史の問題、ひいては、人が絵を所有し、眺めるという営為について考えるための重要な契機になると思われる。明治二十八年の大喀血以降、身体の自由を奪われた子規は、展覧会という公的な場から遠ざかり、病床で眺めうる画譜を鑑賞の中心に据えていく。絵に「触れる」ことは、近世以来の絵画鑑賞の様態を色濃くのこすものであり、子規の文人的素養の反映でもあった。古書肆において今日顧みられることの稀な江戸明治の画譜が数多く扱われ、江戸画譜の再摺と新たな小画譜の版行が相次いだ同時代の文化的様相が、子規の天分を開花させ、その鑑賞を豊かに養ったとも言い得る。子規の画譜鑑賞は、ごく個人的な資質に育まれたものであると同時に、当時の文化のありようを映し出すものであった。子規は社会から孤立した特権的鑑賞者ではなく、明治三十年代における市井の人々と絵の交わりを象徴する。最晩年の子規は、森4外、高山樗牛らの論争の中心となったハルトマンの美学思想と距離を置き、正岡子規(1867〜1902)は卓越した文学的営為とともに、その晩年、絵画の領域で優れた仕事を残した。これまで『果物帖』『草花帖』に代表される写生画が採り上げられることが多かったが、絵画、ことに画譜の鑑賞の上でもすぐれて本質的な営みをなしている。一般に「鑑賞」は形として残ることが稀であるが、『病牀六尺』をはじめとする子規の豊かな言葉は、その具体的様相を浮かび上がらせる。私たちは、子規の研究発表者の発表要旨:「正岡子規の画譜鑑賞」「眼」の追体験が可能となる。子規旧蔵の画譜(法政大学図書館正岡子規文庫)は、
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