鹿島美術研究 年報第22号
66/108

全38点を発表している。藝州美術協会は、靉光が画家としてはじめて結成に参加した―49―研 究 者:広島県立美術館 学芸員  藤 崎   綾広島出身の洋画家・靉光(1907−1946)が、独自の画業を展開する出発点となったのは、「ライオン」といったモチーフの発見であった。1936(昭和11)年頃に集中的に制作されたライオンやシシは、独立展や中央美術展に出品され、ライオンの姿形そのものや独自の空間構成を示す造形表現が、代表作《眼のある風景》(1938年)を生んでいる。ライオン連作により、画家として重要な時期を迎えた靉光は、中央展での受賞作を含む一連の作品をはじめて郷里で発表した。この重要な舞台となったのが、藝州美術協会である。広島出身の在京芸術家たちによって結成された同会は、同人の作品を多数集め、1936(昭和11)年に広島市の産業奨励館(現・原爆ドーム)で第1回展を開催した。油絵、日本画、彫刻、各分野における同人の代表作や近作が並び、東京での躍進ぶりを示した。会場には多数の観客が訪れ、盛況ぶりが伝えられている。靉光においては、模索と混迷のロウ画時代を脱する契機となったライオン12点を含む、美術グループでもあった。自主的に作品発表の場を求めた最初の機会であるとともに、郷土で活動する地元美術家たちにとっては、東京の美術状況の現在を知る貴重な場を提供したともいえる。靉光にとって、また戦前の広島の美術家にとって大きな存在であったにもかかわらず、藝州美術協会については、設立経緯や活動の全貌など、具体的な内容が明らかになっていない。同会の活動を支援した広島の文化人の存在が伝えられているが、その他の支援者の有無および具体的な支援活動についても、未だ調査がなされていないのが現状である。本研究は藝州美術協会の同人や支援者について調査研究を行うことで、同会の活動内容と人的ネットワークを明らかにしようと試みるものである。展覧会活動をはじめとする、協会の基本的枠組みについての情報を調査し整理することで、戦前の広島芸術界のなかでの藝州美術協会の位置付けが可能になると思われる。広島の美術に及ぼした影響関係をふまえることで、靉光の画業に占める藝州美術協会の存在や、《眼のある風景》に至る靉光の制作状況についての考察が得られると考えるものである。⑳ 藝州美術協会と広島の美術家 ――《眼のある風景》に至る靉光の活動を中心に――

元のページ  ../index.html#66

このブックを見る