―57―中世における不動明王画像の展開 ――倶利伽羅龍剣をめぐって――が崩れ始め、18世紀半ばに完全に崩壊し、転機を迎える。続く近代社会はさらに人間と自然との関係に変化をもたらした。大きく自然観が変遷する時代を生きたターナーは、イギリスの大地に根ざし、人間と自然との関係を鋭利な感性によって捉え、自らの世界観としてのコスモロジー(宇宙観)とトポロジー(地誌的場所論)においてその新しい表現形態と独自の絵画様式を創造している。その追究が本研究の目的である。研 究 者:広島大学大学院 文学研究科 博士課程後期 山 口 直 子倶利迦羅龍剣を説く経軌には、①金剛智訳『不動使者陀羅尼秘密法(不動使者法)』、②不空訳『金剛手光明潅頂経最勝立印聖無動尊大威怒王念誦儀軌法(立印儀軌)』、③不空訳『底哩三昧耶不動尊威怒王使者念誦法(一巻底哩三昧耶経)』、④不空・遍智共訳『勝軍不動明王四十八使者秘密成就儀軌』、⑤『佛説倶利伽羅大龍勝外道伏陀羅尼経』、⑥『倶利迦羅龍王儀軌』、⑦安然撰『不動明王立印儀軌修行次第胎蔵法』があるが、具体的な像容を示すのは⑧『説矩里迦龍王像法』である。それによれば、「形は蛇の如く、雷電の勢いをなし、身は金色、如意宝を繋ぐ。三昧の焔が起こり、四足を踏みしめ、背に七金剛利剣を張り立て、額に一支の玉角を生やし、剣上に纏い繞る」という。このうち①②③は空海・円仁・恵運・円珍によって請来されており、⑦にも謳われていることから、平安前期の密教受容期に倶利迦羅龍剣が知られていたことに疑いの余地は無い。しかし意外にも、不動明王画像中に見られる現存遺例となると、確実に平安時代に遡り得るのは管見の限り青蓮院のいわゆる青不動が唯一である(『覚禅鈔』掲載図等白描図像や当麻寺の蒔絵経箱は三昧耶形としての倶利迦羅龍剣である)。しかも青不動の場合、倶利迦羅龍剣はあくまでも持物であって、これを別箇に独立して描く図は中世以降の所産と考えられるのである。日本における密教図像の多様な展開の中で、倶利迦羅龍剣を単なる不動尊の変化身としてばかりでなく、矜羯羅・制多迦と同様に使者として扱うようになるらしい。その意図は何か。また、いつ、どのような流派から誕生し、どのように広がっていったのか。本調査研究は、中世制作と思われる現存遺例6件(調査研究対象作品①〜⑥)を、一つずつ絵画史上に位置付けることで、従来不明のこの点を明らかにすることを
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