―58―黒田重太郎と日本におけるキュビスム受容「秩序への回帰」がさかんに叫ばれるようになる。そうした傾向は美術界にも影を落『ラ・ヌーヴェル・ルヴュ・フランセーズ(NRF)』に寄稿する批評家でもあったロート『中央美術』などで展開された旺盛な批評活動からも、黒田が常にロートの存在を意目的とする。なお⑦は持物の例、⑨⑩は三昧耶形の例のそれぞれ比較作品として、また⑧は④⑤の背景を探るための参考資料として加えた。研 究 者:京都市美術館 学芸員 清 水 佐保子フランスでは、第一次世界大戦を契機として保守化の動きが目立つようになり、とし、堅牢な画面構成を旨とする新古典主義(ネオ・クラシシスム)の台頭を招いた。新古典主義の支持者は、印象派や新印象派に顕著な「感覚主義」を非難する一方、幾何学的な秩序と構築性を目指したセザンヌを「古典」として崇めるようになる。そうした中で、印象派の「感覚主義」に反旗を翻し、論理と構築性を重んじたキュビスムを評価する動きが現れた。セザンヌを経てキュビスムに接近したアンドレ・ドランや、いわゆる「サロン・キュビスム」の作家であるアンドレ・ロートらが、今やキュビスムとアカデミスムを折衷することで、フランス美術の良き伝統に連なる存在とみなされるようになったのである。こうした動向は、美術雑誌での紹介や海外作家の特別展観を通じて、日本にも刻々と伝えられている。こうした活動のただ中で重要な役割を果たしたのが京都の洋画家、黒田重太郎(1887−1970)であった。黒田は、1916年から18年、および1921年から23年の二度に渡って渡仏し、一度目はアカデミー・コラロッシでシャルル・ゲランに、二度目はアカデミー・モンパルナスでアンドレ・ロートに学んでいる。とりわけ、からの影響は絶大で、穏健なキュビスムとも言うべき師譲りの作風もさることながら、識していたことがうかがえる。帰国後の黒田による滞欧作の発表や執筆活動、さらには二科会での海外作家の紹介や関西美術院での美術教育などを跡づけることで、黒田が日本におけるフランス美術、とりわけキュビスムの受容に果たした役割を検討することは、印象派やフォーヴィスムの影響ばかりが指摘される日本近代美術史の欠落部分を埋めるだけでなく、受容史および展覧会史的な先行研究に対して新たな成果を付け加えることができる、意義深
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