鹿島美術研究 年報第22号
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―73―幕末・明治初期の油彩画伝習と普及ザン地方の金工品、マケドニア朝美術の諸作品などが検討対象となるだろう。こちらも取り上げる作品はカンタベリーの「パウロ像」と造形上の比較が可能なものに限定する。これら2つの研究を行うことで、カンタベリーの「パウロ像」のどこまでがビザンティン美術の直接的な影響によるものであり、どこからが12世紀イギリス・ロマネスク美術において独自に発達した様式であったのかが明らかになるだろう。――高橋由一、横山松三郎と長崎の「レーマン」――研 究 者:ふくやま美術館 学芸課長/副館長  萬 木 康 博由一と松三郎は、1871〜72年(明治4〜5)年に蜷川式胤の指揮による江戸城そして正倉院宝物の記録調査で共働する。由一は油絵師として、松三郎は写真師として。“真”を捉えることに情熱を傾けていた二人に、蜷川は鮮やかな役割分担を課した。明治4年の江戸城記録調査では、松三郎撮影の湿版写真が、実況記録の主役となった。しかし当時の写真技術の宿命としてモノクロームであったために、蜷川は写真の膜面の上からの着彩を由一に施させた。ところが、結果は好ましいものではなかった。翌5年の正倉院宝物開封調査で蜷川は、写真師には写真の、油絵師には絵画の、本領を発揮させ、それぞれ別々に写真帖と画帖を作成させた。高橋由一は同じ明治5年に、彼の画業でとくに重要な〈花魁図〉を描きあげ、そして明治10年の〈鮭図〉にまで登りつめていく。いっぽう横山松三郎は、写真研究と平行して進めていた油絵制作から次第に遠ざかり、上野不忍池畔に写場を開設して立体写真研究などにも手をひろげ、写真への傾斜を加速していく。たいへん近い存在であった高橋由一と横山松三郎の比較研究は、明治初期、日本の近代初頭における油彩画と写真の分岐に関する考察に、けして小さくない意義をもつものと、私は考えている。今回の研究における具体的課題として掲げた「長崎レーマン」と横山松三郎の接点を探ることは、松三郎の写真への傾斜の、伏線を浮かび上がらせることになるかもしれない。そして少なくとも、長崎にいて「ホトガラ写真」に関わっていたとみられる「レーマン」のアウトラインが見えてくるならば、その「写真」に対する関わり方、

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