―75―Fベラスケスのボデゴンと17世紀セビーリャの知的環境研 究 者:慶應義塾大学大学院 文学研究科 後期博士課程 諸 星 妙本研究は、ベラスケスが初期セビーリャ時代に描いた通称「ボデゴン」の成立と意味を、当時のセビーリャの文化的環境との関係から明らかにすることを目的とする。貧しい庶民の日常生活をリアルに描くベラスケスのボデゴンは、宗教画が絵画生産の大半を占めた17世紀初頭のスペインにおいて極めて特異であり、従来、その着想源は16世紀後半のフランドルやイタリアの風俗画にあると考えられてきた。しかし、ベラスケスの作品は、質素、諷刺的要素の欠如、現実との直接対峙を特色とするもので、夥しい数の食物を華麗な色彩で描くそれらの作品とは明らかに異なる。これを踏まえ、本研究では、極めて斬新で特異なベラスケスのボデゴンが、師のパチェーコ周辺に集まる知的貴族たちのために描かれた点に、特に注目する。当時、貴族たちの間では、独立したジャンルとして新たに描かれるようになったばかりの、貧しい者の日常をテーマとする絵画への関心が高まっており、このような絵画を多く蒐集していた第三代アルカラ公が、ベラスケスをボデゴン制作に導く上で重要な役割を果たしたことがブラウンとケーガン(1987)により指摘されている。これらの貴族と親しかったパチェーコも『絵画芸術』(1649)で、静物画や風俗画への特別の興味を示している。また、経済の疲弊により貧困者が街に溢れる社会状況と対抗宗教改革を背景として、貴族たちの間で、貧しい者や労働に対して新たな価値観が生まれたのも、この時期であった。カトリック擁護運動の砦であったスペインで、貧者を庇護することで自らの救済を確保しようとする貴族たちにより、貧しさや労働が肯定的に理解されたことは、ベラスケスのボデゴンの成立を考える上で重要な意味を持つと考えられる。先行研究では、当時の貴族の貧者や労働に対する考え方、それらを描く絵画の受容のあり方などについて、あまり論じられていないが、ベラスケスのボデゴンを理解するためには、作品を受容する貴族を中心とした同時代の知的環境を明らかにすることが不可欠である。従って、同時代絵画との比較分析によりベラスケスのボデゴンの表現の特質を浮き彫りにするだけでなく、貴族のコレクション、パチェーコや貴族が参照した文献、貴族と貧者の関係等を詳しく調査することで、作品を成立させる特殊な同時代的環境を実証的に明らかにすると共に、それとの関連から個々の作品の意味をも検討する本研究には、大きな意義があると考えられる。さらにボデゴン制作を通して獲得された芸術
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