―15―の一端として、現存作例中に十羅刹女を女房装束の和装であらわした、いわゆる「和装本」の存在することが想定される。十羅刹女の「和装化」は十二世紀前半にはすでに行われていたものと私考されるが、大治二年(1152)頃制作の国宝「扇面法華経冊子」(大阪・四天王寺、東京国立博物館)表紙絵(五帖分)に描かれた和装の羅刹女が現存最古の作例であり、長寛二年(1164)供養の国宝「平家納経」(広島・厳島神社)見返絵がこれに続く。そして、これらにあらわされた和装の十羅刹女と同一の図様が鎌倉時代の旧益田家本や奈良国立博物館本、東京芸術大学本等に繰り返し描かれており、和装十羅刹女像の規範とされたと考えられる。逆に旧益田家本等の十羅刹女の図様から「扇面法華経冊子」の失われた五帖分の表紙絵を復元することも可能かと思われる。では、何故この二者は、和装十羅刹女像の規範たり得たのであろうか。結論を述べれば、「扇面法華経冊子」における十羅刹女の和装化は、法華経を中心とした天台宗優遇策を対外的に示すことによって、我が国の外交権を掌握した藤原摂関家における法華経信仰の伝統を扇面という「和」の表象において総合化する意図により行われたものとみられる。また、「平家納経」におけるそれは、我が国独自の本地垂迹説に基づき、十羅刹女に我が国の女神のイメージを重ねたものと考えてよい。すなわち、藤原摂関家周辺において和の表象として(それは同時に我が国における女性の熱心な法華経信仰を象徴する図様ともなり得たわけだが)形成された和装の十羅刹女像は、その図像を継承した平家周辺において新たなイメージを付与され、規範性を有する堅固な図像となっていったと思しい。さらに、鎌倉時代に入り和装の十羅刹女が宋風の普賢菩薩と併置されるという作例が多く認められるようになる。この現象が示唆するところについても併せて考察し、我が国における和装十羅刹女像の図像形成が有した意味について考えてみたい。東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程 金沢 百枝十二世紀ルネサンスと呼ばれる時代、春の芽吹きのようにいっせいに、数多くの天地創造図が世に現れた。創世記、典礼書、詩篇や創世記註解などさまざまなジャンルの写本に、天地創造場面が描かれるようになるのである。そのほとんどがイニシャル装飾だが、なかには、一頁を使って、創造主を中心とした円環に天地創造場面を描く「西欧中世における世界認識と創造主賛美図に関する図像学的研究――天地創造型マエスタスの誕生と瞬間的創造――」
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