鹿島美術研究 年報第23号
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ら20世紀まで、西洋美術のさまざまな作品の構図やモティーフが引用されていること―17―愛知県美術館 主任学芸員 村上 博哉ら、「生きてゐる画家」と結びつけられ、抵抗の意志を込めた「反ファシズムの絵画」として広く知られるようになったのである。以後半世紀の間に、《画家の像》と《立てる像》は盛んに論じられ、「反ファシズムの絵画」という解釈に対する疑問や異論もたびたび唱えられたが、それに替わる有効な解釈は未だ提出されていない。一方、松本が1943年の二科展のために制作した《五人》と《三人》(結果的には《三人》だけが出品された)は、やはりそれぞれ百号の大作であり、しかも《五人》には松本の全身像が描かれているにもかかわらず、言及されることがきわめて少なく、戦時下の家族像と見なされるにとどまっている。今回の研究は、これまで注目のされ方に大きな差のあった上記4枚の人物画を、ひとつの完結した作品群として捉え、従来の松本竣介論とは異なる観点から、制作の動機と作品の意味を明らかにすることを目的とした。《画家の像》や《立てる像》は絵画による社会的発言と見なされてきたが、「生きてゐる画家」とは別の松本の文章を参照するならば、制作の動機は、彼のごく個人的な問題にあったと考えられる。また、それぞれの作品の意味を読み解くには、準備デッサンが有力な手がかりとなる。さらに、西洋の美術に関する松本の幅広い知識がこの作品群に生かされ、古代ギリシャかにも注目する必要がある。《五人》と《三人》は2枚組で1点の作品であるため、上記の4枚は、3点の作品と見なすべきである。これらは「自己」という主題を明確な構想に沿って展開した「三部作」であり、そこには《画家の像》=「正」、《立てる像》=「反」、《五人》松本竣介(1912−1948)の没後間もなく形成された「抵抗の画家」の神話は、今日もなお、この画家に対する評価に影響を及ぼしている。松本の1941年の論文「生きてゐる画家」がファシズムへの果敢な抗議であったという見解は、戦後、本人の死とともに広められた。それに伴って、彼が1941年、1942年の二科展にそれぞれ出品した《画家の像》、《立てる像》は、いずれも百号の大画面に全身の自画像が描かれていることか「松本竣介研究――《画家の像》、《立てる像》、《五人》《三人》の解読――」

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