鹿島美術研究 年報第23号
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―43―Decoration : Japanese Lacquer Art from the 16th to 19th Centuries』に収録されているが、関心が高まったのは、19世紀の後半、ジャポニスムの風潮に乗って、明治時代の美術工芸品がヨーロッパ市場を賑わし、日本漆器も主要なコレクションの対象となった。スホメル氏によれば、現在、プラハ国立博物館には約5500点の日本美術が所蔵されており、このうち漆器は185点である。その他の作品は、プラハと近郊の美術館や古城に散在しており、多くが2002年に出版された同氏の著書『A Surface Created for全貌はまだ明らかでない。本調査研究では、第一に詳細な作品の調査と収集を行い、これを報告する。そして、チェコにおける日本美術収集の歴史的背景を踏まえつつ、日本漆器コレクションの特徴について考察を試みる。なお、調査日数には限りがあり16世紀の後期から19世紀までという長い期間を考察対象とすることは困難なため、詳細な調査は17世紀中頃から末期にかけて制作された作品を中心に進めたい。この期間はオランダ東インド会社による漆器交易量のピークであり、これまで申請者が調査した作品が最も多い期間でもある。すでに手元にある研究成果を生かし、漆工史研究や、ヨーロッパにおける日本美術受容史の研究に寄与する成果をあげたいと思う。研 究 者:早稲田大学第一文学部非常勤講師第1に、肖像の像主確定論と肖像誌である。1980年代末以降、肖像研究は新段階を迎えている。とりわけ伝源頼朝像をはじめとする神護寺三像の像主をめぐる論争では、肖像が社会的産物であり、その個別性が「名付け」によって保証されていることが指摘された。肖像がこうした像主名のゆらぎのなかで、制作されてから長い時を奇蹟的に生き続けた1つのドキュメントであるとする肖像誌の提言もなされている。たいていの場合、肖像が制作されて長い時間がたつと、讃・文書・記録・伝承といった言説は失われ、法会・神事・祭礼などの儀礼的行為は衰退して、像主の名前を認知していた集団は反比例的に狭まり、いつしかその肖像が誰のものであったかわからなくなってしまう。本研究では、足利義満像と足利義持像とが像主名に混同をきたした理由を、義持像の所蔵者である神護寺の歴史のなかから解き明かしたい。また両像が制作されて以来、黒田 智⑯ とり違えられた肖像――足利義満・義持の地蔵信仰――

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