木 文恵8森川許六と絵画――俳句・俳文と画との関係―――48―《玄圃瑤華》に続き、明和八年(1771)に制作された。その制作の契機、意図がいまだに明らかではない。本研究は、《着色花鳥版画》の制作状況とともに、拓版画を含むこれらの作品の受容者層に近世上方狂歌壇を想定しその受容の状況を考察することを目的とする。その過程において上方狂歌集に収録される画賛、狂歌集の挿図、板元との関係など基本的な整理を行いたい。《着色花鳥版画》制作に関しては、宝暦八年(1758)、京都において開かれた鸚哥(インコ)の見世物が関係していたのではないかと考えている。その見世物を伝える版本が『奇観名話』という題名で出版され、京都の狂歌師九如館鈍永が跋文を記している。鸚哥図という観点からは、円山応挙が明和七年(1770)に制作した《青鸚哥図》に注目する。《着色花鳥版画》と模写作と推定されている《青鸚哥図》は、ともに非現実的な世界を作品化したものとして共通する。しかし両作品の表現、技法の違いは顕著であり、両作品の比較研究をおこなうことで若冲の《着色花鳥版画》における制作意図がより理解されるだろう。さらに淀川をモチーフにした《乗興舟》と《淀川両岸図巻》との比較研究にも可能な限り着手したいと考えている。上方狂歌集に収録される画賛、狂歌集の挿図、板元との関係など基本的な整理を行うことは、若冲と狂歌師たちの関係性を追求するだけではなく、その他の絵師たちと上方狂歌壇との関係性を考える上で重要な資料を提供できるものと確信している。本研究は、今橋理子『江戸の博物画』(1995、スカイドア)における「若冲の独創によって生み出された『奇跡』の作品としか、今のところ言いようがない」という《着色花鳥版画》に関する記述への、一つの回答となると思われる。美術史と文学という十八世紀京都での幅広い文化活動を視野に入れた研究を目的とする。研 究 者:彦根城博物館学芸員森川許六(1656〜1715)は、元禄・宝永期の俳諧と俳画を考える上で重要なキーパーソンであるが、絵画の方面からはいまだ本格的な研究がされておらず、十分な検証がされないままに許六筆と称される作品が多い。本調査研究では、できるだけ多くの許六筆と伝える作品の実地調査をおこない、基礎的なデータを蓄積しようとするもの
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