鹿島美術研究 年報第23号
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―52―釈迦堂縁起絵巻の研究――仏伝図としての視点を中心に――は論じられる機会が少なかったのが現状である。『前賢故実』といった容斎作品からの引用に終始することなく、構図や賦彩に楓湖の独自性が認められる作品もあり、本研究の中で、容斎作品との詳細な比較検討を行い、その共通点と相違点を明確にすることで、容斎の画風の継承とその発展を考察し、容斎を引き継いだ楓湖の存在意義を明らかにできよう。3.同時代資料の研究されていることから、これらも重要な画業と位置付け、挿絵の成立過程(『幼学綱要』は『前賢故実』との関連が指摘されている)や本画との関連性を考察していく。その上で、それらの挿絵が他の画家に対してどのような影響を与えていったのか検証することで、当時の評価を現代的な視点から捉え直していき、本画に偏らない画業の全般から楓湖の実像に迫っていく。この結果、明治日本画壇の重鎮という漠然とした位置付けについて、より具体的、客観的な側面から評価を下すことが可能になると思われる。研 究 者:東京都江戸東京博物館学芸員一見矛盾するようだが、漢画派としての狩野派の流派様式の成立に元信による大和絵の導入が寄与したことは、大方の認めることである。いわゆる「和漢の融合」こそ狩野派の流派様式の基盤といえよう。それは狩野永納が『本朝画史』で「狩野家は是れ漢にして倭を兼ねる者なり」と述べていることからも窺える。しかし土佐派や雪舟と異なり、和漢どちらにも通じていることが画派としての狩野派の個性であると江戸期に考えられてきた割には、近代に入ってからの狩野派研究は、その「漢」としての要素に偏ってきた傾向にあるように思われる。元信についても大仙院障壁画や霊雲院障壁画の流派内での規範性や後に与えた影響については多く語られるが、絵巻などの大和絵画題の作品に同等の関心が払われることはなく例外的な作例として扱われてきた。だが狩野派の近世を見る上で、最も特徴的な金碧画の様式が十五世紀以来の大和絵の金屏風の伝統を受け継ぐものであることを考えれば、元信の様式確立期に描かれた大和絵画題の作品は重要視されてしかるべきである。また、楓湖は『幼学綱要』『婦女鑑』などの挿絵でも評価畑 麗

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