―53―木村探元の京都における作画活動についてとりわけ釈迦堂縁起は初期の代表作である大仙院障壁画(永正十年)と前後して(私見によればほぼ同時進行で)描かれた。したがって釈迦堂縁起の制作方法を考察することは、その後の狩野派の大和絵作品の特長を考える上で有意義であるばかりでなく、漢画題の作品を考える上でも指標となりうる。本研究は、仏伝絵巻として釈迦堂縁起をとらえることで、元信の伝統に対する位置を規定し、また同時代の大和絵に対して元信がどのような距離をとったかを明確にすることを試みるものである。研 究 者:早稲田大学第二文学部助手本研究の目的は、薩摩絵師木村探元が享保十九年から二十年にかけて、約半年間京都に滞在した時に行った作画活動の内容を明らかにすることである。探元の薩摩における作画活動に関する研究に比して、京都滞在時に関する研究はいまだ不充分な状態にある。本研究では、探元がこの時期に、近衛家を中心としてどのような人物たちから、どのような内容の絵を求められていたのかを、詳細に明らかにすることを目指す。さらにこの時に制作した絵のうちで現存するものを分析し、同時にいま分かっている以外にも現存作例がないかを調査する。本研究には次のような意義がある。まずひとつは、京都滞在時の探元の画風を解明することで、探元の画風変遷の全容を知ることができることである。探元は狩野派様式を基本として薩摩で作画活動を行っていたが、京都に招聴された時にはまた薩摩とは多少異なる作風が求められた。京都の貴族らの注文に応じようと努めたことが、探元の画風に変化をもたらした可能性は高い。この京都での作画活動を明らかにすることで、帰郷後の探元作品もより深く理解することができるようになると考えられる。次に、本研究によって、公家(パトロン)と御用絵師の関係を詳細に知ることができ、他の絵師について考察する際の参考になることが予想される。『上京日記』には、探元への絵の注文依頼の様子から注文者への作品納入にいたるまでの経緯が詳細に記されている。このような文献史料は他に例を見ず、探元だけでなく、京都の御用絵師の活動実態を解明する手がかりになると期待できる。斎藤 全人
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