(1771)という浮世絵版画史において早い時期に作られた鮮麗な多色摺り版画であり、―54―伊藤若冲の「著色花鳥版画」研究最後に、探元は近衛家に招聘される形で上京し、当主家久やその父家煕の作画御用に応じているが、それだけではなく京都滞在申は禁裏やその他の公家衆から様々な作画依頼を受けている。本研究で探元への注文者を特定していくことで、近衛家を中心とした文化人ネットワークの様相が明らかになることも大変重要な意義を持つと申請者は考えている。研 究 者:学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程若沖は、「動植綵絵」に代表される濃密な著色画や、筋目描きと呼ばれる水墨画、画面を方眼状に区切った桝目画、点描風の水墨画など、晩年に至るまで常に新たな視覚表現を求め、様々な技法を創出した。若沖は独創性の強い画家であったことは確かだが、これらの表現をすべて若沖の独創に帰すのではなく、十八世紀の時代背景をふまえ、個々の作品を詳細に検討してゆく必要がある。《著色花鳥版画》は、明和8年他に類例のない孤立した存在である。また、若沖の画業の中でも現存する唯一の著名版画である。したがって、版画や若沖作品からだけではなく、他の分野からのアプローチも有効であろう。そこで、染織や蒔絵からの詳細な考察を試みる予定である。若沖は親類に西陣織の業者がおり、染織と深い関わりがあったことが知られている。また、《動植綵絵》においては、蒔絵の図案集からの影響が指摘されている。江戸時代、絵画と染織・漆工などの工芸分野との間には境界はなかった。両分野を横断しながら、考察を進めることは、江戸時代の美術研究において重要なことである。本研究により、十八世紀の京都における絵画・染織・蒔絵といった造形活動の一様相を提示することができるとともに、若沖作品の未だに多い不明点を解明できると考える。若沖の画業における位置づけについては、モノクロームの「拓版画」が中国の拓本の影響を受けた文人趣味のものであったのに対し、著色の本版画はその文人趣味に加え、《動植綵絵》などの著色花鳥画の延長線上に置くことができると考えている。10年間に及んだ《動植綵絵》の制作を終えて、新しい表現への挑戦として選んだものが版画であったことの意味について探究したい。版画は絵画とは異なり、量産が可能な媒体であり、画家一人によって作られるものではないので、どのような状況で制作さ山口真理子
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