鹿島美術研究 年報第23号
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―57―1900年代から30年代における日中間の美術交流に関する研究研 究 者:東京国立近代美術館研究員近年アジアの近代美術は着実に研究が蓄積されつつある。しかしその具体的な内容は主に国別または特定の作家についてであり、国という枠組みを越えた、アジア地域内での「交流史」という観点からの研究はまだ概説的な段階にとどまっている。すなわち、歴史的事象を背景とする人の移動や、美術学校という制度のもとでの留学生の移動などについては事実がかなり詳細に指摘されてはいるが、それらが実作品にもたらす影響についてまで踏み込んだ研究は十分に行われていない。アジアにとって近代という時期は、西欧諸国の進出など歴史的事象を背景に西洋美術の知識が急速に流入し、作家達が伝統美術と西洋美術とのはざまで苦闘した時であった。地域により西洋美術が様々な形で受容され、改変が行われ新たな美術が生み出されたわけだが、その多様なありさまの要因については現在、各地の地域性やそれをとりまく歴史的社会的事象をはじめ、雑誌など各種文献や展覧会などのメディアが主に考察の対象となっている。しかし実際は、西洋美術の伝播を支えた要素として、作家や知識人による人的交流の具体的な内容も重要なものといえる。人を介して伝播する過程で、西洋美術の知識は原初の状態から少しずつ性格が変化していく。この人的交流による西洋美術の知識の変容もまた、先に述べた近代アジア美術の多様性を形成する重要な要因である。本研究ではこのような、まだ研究の蓄積が浅い、人的交流の具体的なありさまと、それが作品へと結実していく過程を明らかにする。研究では特に1900年代から30年代における日中間の美術交流に焦点を絞り研究を行う。この時期中国では相次いで美術学校が設立され、教員として多数の日本人が赴任した。また李叔同、陳抱一など多数の中国人が留学生として来日し、彼らは帰国後中国の美術の発展に重要な役割を果たした。また日本においてもこの時期には研究者や作家の中国に対する関心が高まり、竹内栖鳳、中川紀元、三岸好太郎など現地に赴く作家もいた。こうした交流については、事実関係がかなり整理されてきてはいるが、交流の具体的な様相に関する検討は十分でない。本研究により、国という枠組みを越えた、近代美術の多重な構造がいっそう明らかになり、また個々の作品の新たな位置づけも可能となるだろう。中村 麗子

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