―66―E東福門院の小袖注文帳にみる和歌意匠の源泉について該期の繍仏制作の状況から考察する。以上の考察によって、奈良博本が宝厳寺本に対して、どのような状況のもとに規範性を持つにいたったのかについて具体的な検討を行うことができると考える。この考察を通して、奈良博本をはじめとする平安時代後期の普賢菩薩画像が持ち得た規範性とその発生について考察する。――手鏡類、詠歌を手がかりに――研 究 者:京都大学文学部研究生平等院ミュージアム鳳翔館学芸員東福門院の小袖注文書類にみる和歌意匠解明の意義は、次の3点である。1,東福門院は、江戸時代前期の宮中を中心に成立した文化(「寛永文化」)において、最もこれを庇護し、影響力を与えた人物の一人である。2,東福門院は記録によると小袖類に自ら工夫を凝らして仕立てさせていたことがうかがえる。3,和歌は、当時は勿論伝統的にも一番の教養であるが、これらの注文帳にみる和歌の意匠には、特定の傾向がうかがえる。価値:本研究は、東福門院ゆかりの美術工芸品が同人物の政治的立場にまつわるものである点を重視しており、このことは注文主という視点の重要性を指摘している。すなわち、これらは幕府からの使者への褒美品であり、寺社復興時の奉納品であり、交際のあった公家への贈物などであった。なお資料とする手鑑類は、東福門院が能書の親王・門跡・公家に命じて書かせたもので、当時これは「寄合書」と呼ばれた。江戸時代前期頃から寄合書は、記録にも現存品としても数多くみうけられる。今後考察の対象とされる可能性は高く、その際本研究は背景の明らかな作例を示すことになろう。また中心資料とする「桜花楓樹図屏風」(シカゴ美術館蔵)は、東福門院「御好み」(注1)、「物数寄」(注2)と称された押絵屏風の唯一の作例である。日本国内に所蔵されていた時、土佐光起の作品として認められている(注3)が、和歌の出典および筆者の比定はまだ行われていない。花房 美紀
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