―69―陸治「白岳紀遊図」についてり立ちやすい。また、それが芸術の歴史をつくってきたのかもしれない。日本では幕藩体制が崩壊し、産業・商業・海外との通商など、近代国家を形成してもなお、その図式は変わることなく、芸術はむしろますます政財界人とのつながりと、一種の「金満家」にステイタスシンボルとして迎えられたのではないだろうか。原三溪は横浜開港後、生糸貿易で財を成し、市電を整備したり、また関東大震災で壊滅的な被害を受けた横浜の復興に尽力したりした実業家であった。自ら書画をたしなむとともに、優れた古美術の収集のほか、新進気鋭の若手作家への援助も惜しまなかった。その彼に最も愛顧を受け、当時画壇で人気を博した下村観山という近代作家と、彼の最大の支援者である原三溪という実業家の関わりを支援の様子と作品内容から追っていくことは、芸術が彼らの何を虜にしたのか、作家と支援者たちの人生の営みに何の役割を果たしたのか、ということを知るきっかけとなるのではないだろうか。出品画として描いた内容、売画として描いた三溪ら支援者の依頼画の内容の違いを見つけることにより、観山が本当に目指していた方向を知る。そして、それらが当時どれほどの値段で支援者たちの間で売買されていたかということから、近代における芸術の価値、また、それらが現在に及ぼす作家の価値にどのような基準となりえたのかを客観的に知る資料となればよい。また、支援者は、作家が芸術を創造するにあたって、実際の作品にいかなる功罪を与えたかを客観視することができると期待する。それらを、《弱法師》《春雨》などの観山絶頂期である再興院展初期の、謡曲や能舞台をとりいれた作風と、同じ出品画でも《楠公》などの三溪の依頼によったと言われる、若干時代が下がる時期の作風との違いなどから考察していく。研 究 者:実践女子大学文学部非常勤講師明代呉派の画家、陸治(1496〜1576)による「白岳紀遊図」(藤井有鄰館蔵)は、1554年、蘇州市街から安徽省休寧県の斉雲山までの名所旧跡を16図描いた実景図冊であり、日本に所蔵される数少ない明代絵画のひとつである。この「実景図」とは、経済発展に伴う市民生活の向上を背景に、紀遊した場所や名所を絵画化する画題で、明玉川 潤子
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