鹿島美術研究 年報第24号
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―19―にとどまらず、記録されなかった部分の絵画状況をも明らかにするものと言え、多面的な研究の総合を図っていくことで、唐代絵画史のより包括的な理解が可能になると思われる。「パウル・クレーと舞踊−第一次世界大戦勃発までに描かれた踊る人物線描画を中心に−」発表者:成城大学大学院 文学研究科 博士課程後期 野 田 由美意にされている。しかしながら、画家としての出発点からすでに、クレーが舞踊に関心を持ち、継続的に踊る人物像を線描画に表していった諸背景は、これまで詳しく検討されていない。そこで、本発表では、クレーの造形の出発点に遡り、その線描画の発展過程と舞踊の関わりを、次の点を中心に追究する。クレーの舞踊に関する日記・書簡の記述は、1901−02年のイタリア旅行に始まる。その記述の背景には、身体運動、風刺画、アジア・オリエントへの関心が窺える。そこで本発表はまず、当時クレーが取り組んでいた「風刺画」との関連から、1907年と1909年の踊る人物像を、イタリア旅行で感銘を受けたロダンの線描画をはじめ、ユーゲントシュティールの画家オラーフ・グルブランソン、フランツ・フォン・シュトゥックの作品と照らし合わせる。それによって、クレーが自律的な線を発展させた過程を検討する。次に、文学、舞台芸術、造形芸術において追究されたアジア・オリエントと舞踊の結びつきが、クレーの線描画に作用した経緯を探る。また、1911−12年における様々な前衛芸術運動との遭遇から、クレーが単純かつ動的な線描による人物像の創造に至ったことを明らかにする。最終的に、これらの人物線描画で追究された線の運動は、第一次世界大戦後の、法則性を持ちつつも多様な運動の展開を提示する作パウル・クレーは、第一次世界大戦後、自らの造形理論をまとめ、絵画の抽象化を進める過程で、積極的に音楽理論を導入した。さらに、1920年に発表されたクレーの線描論と、ルドルフ・フォン・ラバンの「運動譜」等における「書記」の問題を照らし合わせる研究や、1920年代のオスカー・シュレンマーや表現主義舞踊家たちとの交流の研究から、クレーがこの時期以降、芸術創造のために舞踊に取り組んだ過程が明らか

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