―20―品の創造につながっていったことを導き出す。この一連の考察から、クレーの線描芸術において舞踊の果たした役割の重要性が改めて確認されることになる。発表者:学習院大学大学院 人文科学研究科 博士課程 松 島 仁築−中世的な〈知〉の体系の収奪と再編成の最終段階に当たり、一種の文化再編事業ともいえる政策が展開された時期でもあった。六国史以来の正史となる『本朝通艦』の編集事業は、その代表的な例である。『本朝通艦』編纂に携わったのは鵞峰以下の林門の儒者たちであったが、寛文期は林門の朱子学が、大名や幕閣内に一定の支持と理解を得ながら定着する。同時期には山崎闇齋や熊澤蕃山、木下順庵など林門とは立場を異にする儒学者も活躍し、保科正之や池田光政、前田綱紀ら幕政の指導的立場にある大名と結びつき、その政治思想・姿勢に影響を与える。一方、武士が統治する(兵営国家)徳川日本の政治思想としては、儒学よりもむしろ兵学が支配的であったが、寛文期には兵学諸派が整備されるとともに山鹿素行により平時における政治学としての兵学が確立され、新興領主階級である大名を中心に強い支持を得る。中世的な政治思想・世界観である〈王法仏法相依論〉を超克した寛文期は百家争鳴状態の、いわば思想史の〈春〉でもあった。発表では、徳川家綱政権下の文化再編事業や思想界の動向を念頭に置きながら、寛文期を境に出現した新しい絵画ジャンル〈歴史画〉とその背景にある政治思想や歴史観、歴史意識について考察する。就中、南朝方の武将・楠正成を描いた、いわゆる楠〈歴史画〉、誕生−楠公図、あるいは〈兵営国家〉徳川日本の論理と倫理寛文年間(1661〜73)を中心とする四代将軍・徳川家綱の治世は、将軍を頂点とする統一的な知行体系が整備される傍ら、政権内の諸制度も属人的なものから官僚制的なものへと転換され、朝幕関係も一応の安定をみる。武断政治から文治政治への転換期と評価される家綱政権期は、同時に徳川政権独自の文化伝統の構「寛文期における〈歴史画〉の誕生−楠公図を中心に−」
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