鹿島美術研究 年報第24号
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―39―する笈の分布から、使用者の実態もある程度割り出せるのではないかと予想される。研 究 者:九州大学大学院 人文科学府 博士課程後期  林 田 龍 太本研究の目的は、昭和初期における日本近代美術史の諸相を明らかにすることにある。当時の日本洋画壇の動向を一言で集約するならば、それは「日本的油絵」という言葉で表すことができるであろう。画家たちによる海外留学が一般化しつつあった当時、日本国内には西洋の同時代美術やモダニズムが改めて紹介されることとなる。その中にあって、日本の洋画家達は西洋に対応し得る、日本の伝統的な絵画表現に基づいた油彩表現、すなわち「日本的油絵」を模索していった。近年、松本竣介や難波田龍起ら当時の若手画家達に関する研究が盛んになり、彼らの「日本的油絵」の追求もまた議論の対象となりつつある。しかし、その多くは彼らの志向の基盤を作り上げた、つまり当時既に日本洋画壇の中心となっていた画家達の諸相についてはあまり重要視されていないため、その研究結果は昭和初期の日本洋画壇を総括するほどには至ってないように看取される。児島善三郎は1925年−1928年にかけてヨーロッパへと渡り、帰国後は自ら設立に関わった画家団体「独立美術協会」において活動した画家である。彼の作品の特徴である「日本的フォーヴ」様式は、画家による「新日本主義」の提唱も相まって、当時の日本洋画壇のみならず、同時代の若手画家や画学生たちにも大きな影響をもたらした。つまり、児島は昭和初期における日本洋画壇の動向を形成した人物の一人として位置づけることができるのである。従って、児島の制作や「日本的フォーヴ」の新たなる側面を明らかにすることは、昭和初期の日本洋画壇の一側面を明らかにすることにもつながる。本研究の意義はまさしくその点にあるといえよう。また、本研究の価値は、児島の作風においてもとりわけ「装飾性」に注目する点にある。絵画における「装飾性」は明治・大正期の装飾画の流行にも見られるように、日本近代美術史において一貫して追求され続けてきた問題である。児島における「装飾性」とは、同時代において如何なるものであり、それは明治・大正期の「装飾性」と何が異なり、何が受け継がれたのか。それを検証することは、日本近代美術史全体を体系的に見直すことにもつながる。⑩「日本的フォーヴ」考 ―児島善三郎を中心に―

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