―44―研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士課程後期 門 田 彩なぜエル・グレコは当時の絵画様式とは著しく異なった様式で宗教画を描いたのか。イタリア時代に獲得した空間表現や人体像がトレド時代に描かれなかったのはなぜか。グレコの独特な画面構成に対して、従来の研究では、新プラトン主義によるキリスト教的神秘主義の理論との関連から、あるいはトレドで精神改革運動を進めていた改革家たちとの関わりから、また対抗宗教改革期のイタリアの芸術理論を獲得しているグレコ像という理知的な側面からのアプローチがなされてきた。だがこれらの解釈はグレコ作品を理解する上で不可欠ではあるものの、トレドにおける同時代的視点からの考察が欠けているという点で十分とは言いきれない。よって本研究においては、グレコが最も多産であった1600年前後に焦点を絞り、まず、パトロンたちの美術趣向を具体的にすること、また、同時代の芸術家との比較によりグレコ作品を検討し、彼の画業の中での位置づけを行うことで、従来のグレコ像を追認しつつ新たな視点を加え、とりわけ1600年前後のトレドでグレコがどのように活動していたかを明確にすることを目的とする。市井の画家であったグレコにとって、アカデミーもギルドもないトレドにおける思想的な潮流や、周辺の芸術家たちの動向は無視できなかったと推測しうるため、こうした視点からの考察はグレコの全体像を捉える上で重要である。1582年スペイン王室からの委託の道が絶たれたグレコにとって、生計を支えるパトロンとなったのは教会関係者である。対抗宗教改革の取り決めにより教会用宗教画は司教の許可制となっていた1600年前後のトレドでは、グレコにとって彼らとの関係は委嘱作品を得る上でなによりも重要であった。また、絵画だけでなく彫刻や設計など祭壇装飾全体を行わなければならなかったトレドの芸術的環境に従い、グレコも、タベーラ病院付属礼拝堂やサン・ホセ礼拝堂、イェリスカスの慈悲病院付属礼拝堂など大型の祭壇装飾に携わっている。これら各々を扱った研究はあるが、各パトロンやともに携わった他芸術家との関わりを含めて包括的に考察したものはみられない。よって、当時の芸術家を取り巻くトレドの文化的環境をこれらの作品群を検討することで再構成し、その視点からグレコの制作態度を探ることも本研究の対象とする。これは当時のトレドでなぜ彼の作品が受け入れられたかという観点からグレコ作品を捉え直すというきわめて同時代的視点をもったアプローチとなろう。⑮ 1600年前後のトレドにおけるエル・グレコ
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