―46―ュビスムを展開してゆく契機として考察するものがある。その一方で、この作品はイベリア彫刻やエル・グレコあるいは19世紀フランス絵画など古典的・伝統的美術からの構図やモティーフの引用を指摘する見解もみられる。近年、アヴァンギャルドと伝統あるいは古典美術との関係性が問い直されている中で、この問題をピカソ作品に照らし合わせて考えていくことは、非常に意義深いことであると考える。とりわけ、ピカソが10代後半に経験したスペインの前衛芸術運動モデルニスモがエル・グレコを再評価したこと、そしてピカソを含めこの運動に関わった画家たちがパリの画壇に受け入れられるためには「スペイン的」であることが重要であったということとの関係性は、ピカソが1900年を境にパリを目指したことも踏まえると無視することはできない。19世紀末スペインの前衛画家たちにとって、エル・グレコ賞揚はその作品が非アカデミズムと認識されていたゆえのみであったのだろうか。彼らは「エル・グレコ的」そして「スペイン的」と批評されることで、当時の芸術の都パリに受け入れられたということからも、そこに戦略的意図はなかったのだろうか。この点に関しては、すでにロバート・ルーバーが鋭い考察を行っているが、申請者はさらにそれを推し進め、スペインの前衛芸術家たちにとって伝統・古典とはいかなるものであったのかをピカソを軸に考察する。同時に「スペイン的」という言葉が具体的にどのようなもの・作品・イメージを指し、それがいかに彼らの作品において活用されあるいは作用していったのかを分析していきたい。その結果は、従来の《アヴィニヨンの娘たち》をはじめとするピカソの初期作品への見解、そしてアヴァンギャルドが単純に伝統や古典美術の破壊を母体として成立するものといった捉え方を問いただす一助となろう。研 究 者:東京大学大学院 人文社会系研究科 博士課程 黄 立 芸明代(1368−1661)の花鳥画は、宋代の画院の伝統を汲んだ明代の宮廷における花鳥画と、呉派をはじめ陳淳、徐渭を代表とする水墨花卉雑画に分けられる。文人たちの支持を得て明中期以降の画壇で主流となった後者に対し、永楽朝(1402−24)の辺文進と弘治朝(1487−1505)に活躍していた林良と呂紀、いわゆる浙派は明代前期⑱ 呂紀《四季花鳥図》を中心とする明代花鳥画の研究(永楽朝から弘治朝、1402−1505)花鳥画壇の代表者である。
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