鹿島美術研究 年報第24号
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(1503年、北京故宮)、《南極老人図》(北京故宮)などの優れた作品が紹介されること―47―その中でもっとも注目すべき画家が呂紀である。彼は始め辺文進に学んだが、その才能は袁忠徹に見出され唐宋古画を模写させ、技を磨いて宮廷画家となり、さらに画院の同僚である林良を凌いだと伝えられる。彼の活躍年代(1420−39生まれ−1505?)と、成化(1464−87)末期に画院に入ったことは近年の研究によって解明された。また従来花鳥画画家として知られる彼は《四季花鳥図》(東京国立博物館)のほかに近年、呂文英合作の肖像画《竹園寿集図巻》(1499年、北京故宮)や《十同年図巻》によって再び注目され、その芸術全般や歴史的位置も再評価すべきと考えられる。史料によれば、呂紀花鳥画の絶頂期は15世紀後期から16世紀にかけての間であり、当時北京だけではなく、日本との関わりの深い故郷、四明で彼の屏風が複製され販売されていたといわれる。さらに彼と雪舟は同時代人であることが近年の研究によって分かっている。以上のことは、それらの作品と雪舟の花鳥画屏風との関係や、16世紀以降中国・日本を中心とする東アジア花鳥画の展開を考えるのにも重要であり、再検討する必要があると考える。―英国モダニズム美術の展開―研 究 者:大阪大学コミュニケーションデザイン・センター 特任講師この調査研究では、英国のモダニズム美術運動の重要な潮流の一つであるヴォーティシズムとその主導者ウィンダム・ルイス(1882−1957)の美術作品を中心に扱い、これらが同時期およびその後の美術界で果たした役割を、とくにその造形的な局面から検証する。日本では、これまでウィンダム・ルイスの絵画はおもに文学との結びつきから語られ、その造形性に関しては、多くの場合、キュビスムや未来派との類似が指摘されるに留められている。しかし実際には、ルイスは、1898年にスレード美術学校で堅固なデッサン力が評価されて奨学金を獲得し、以後の実験的な試みにおいては特異な色彩画家としての天分をのぞかせている。1930年代後半には、「美術における線の役割」というタイトルの小論を書き残している。ルイスの経歴は、先述のスレード美術学校時代、1910年代のヴォーティシズム期、「テュロスと肖像画」展に代表さ要  真理子⑲ ウィンダム・ルイス(1882−1957)のヴォーティシズム

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