―51―9鈴木空如の法隆寺金堂壁画模写に関する文化財保護的立場からの調査主義を背景とした美術活動に対抗し新たな価値を創出しようとした運動であり、当時の時代状況の中で求心力をもっていた。運動は東京から地方都市へと広がり、同時に帝展出品作家の中にも同様の問題意識を持つ同伴作家と呼ばれる画家を生み出すようにもなっていたのである。このように社会に積極的な働きをうながしたプロレタリア美術運動は、美術作品の価値形成、オリジナルと複製、モニュメンタルな形式、海外美術との交流、素人美術の広がり、戦前美術と戦後美術のつながり等、近代日本における美術史・美学上の重要な問題を内包している。また、この主題を扱うことは、美術の歴史を語るとは一体どのような行為なのか、ということをあらためて問いかけるであろう。一部の名作を中心とするのではなく、当時そこに広がっていた豊かな視覚文化をみつめ直すことは、一元的に収束しようとする価値と対峙しうる価値を形成し、ひいては新しい知見を美術史学にもたらしうるものと考える。研 究 者:秋田県立近代美術館 学芸員 佐々木 直 子法隆寺壁画模写は、鈴木空如が行った古画模写の中でも最も重要な存在で、画業と信念の集大成であるが、文化財保護の歴史においても重要な位置を占めると考えられる。明治初期に岡倉天心、フェノロサが日本各地の文化財を訪ねた際、法隆寺の仏教美術の素晴らしさと美術史的価値を認めたことによって、世界的にその存在が知られることとなった。その後、天心が一般に公開して日本美術の振興を図る目的で、下村観山、横山大観ら美校卒業生に古美術品の模刻模写を行わせた。その際に法隆寺壁画を担当した櫻井香雲によって、初めて十二面全ての模写が完成する。この模写は当時から現・東京国立博物館に所蔵されており、空如はそれを見て深い感銘を受け、自らも人知を超えた仕事へと挑んだと考えられている。ここで、空如の活動時期が、法隆寺の文化財保護活動開始よりやや早いことに注目したい。1913年岡倉天心が法隆寺壁画保存研究会設置を発案したことに呼応し、政府は1915年から約4年間、壁画の破損程度を調査、1934年には法隆寺昭和大修理が開始されている。翌年には文部省が壁画の原寸大写真を撮影、1940年から模写事業が安田靫彦を責任者として開始されている。空如はこうした事業に参加こそしていないが、先んじて法隆寺壁画をはじめ古画模写
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