鹿島美術研究 年報第24号
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―52―:平安時代中・後期における薬師如来信仰とその造像に関する研究「後生引道」「彼岸」といった文言が見受けられる。これは『薬師瑠璃光如来本願功徳の意義を認識し、多くの作品を残したのである。また、模写は法隆寺壁画の顕彰においても重要な役割を負っていた。法隆寺壁画が一般に知られ始めたのは江戸時代中頃と意外に新しく、法隆寺が伽藍修復の浄財を得るために、それまで閉鎖的だった金堂を公開したことにはじまるという。壁画の美しさと荘厳さに驚嘆した人々は、やがて模写を試みるようになり、最も早いものでは幕末の例があるようだ。その後櫻井香雲、鈴木空如、昭和戦前期の旧壁画模写等、相当数が存在する。1949年オリジナルは焼損してしまうが、幸いにも再現出来たのはこれら過去の蓄積によるところが非常に大きい。法隆寺壁画は、模写によって広く認知され、また模写によって損失の危機から救われたといっても過言ではなく、空如の模写も法隆寺顕彰の重要な資料となるだろう。そうした意味からも、空如模写の調査は価値の高いものと考えられる。研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 助手  井 上 大 樹本研究の意義は、平安時代中・後期の末法への移行期という宗教史上の画期に、薬師如来像がいかなる願いによって造られたかを明らかにすることにある。当時の薬師信仰が末法到来と無関係ではないことは、末法到来の年とされる永承七年(1052)に藤原頼通が延暦寺根本中堂の最澄自刻の本尊薬師如来像に脇侍として日光・月光菩薩像を安置したこと、その前年に京都・法界寺像が日野資業によって造立されていることが知られ、加えて法界寺像が当初、最澄自刻の薬師像を胎内に籠めており、その最澄自身が強い末法観を有していたとされることによっても明らかであると考える。一方、当代の薬師如来像の作例を探ってみると、造像銘を有する像がいくつか存在することに気付く。それらの中には、現世利益の仏としての薬師如来にはやや異色の経』に説かれる、阿弥陀浄土に導く薬師如来としての信仰によるものであり、そこには末法到来という時代背景が存在するものと考える。そこで、その銘文を精読することによって願意と発願者をはじめ造像組織を明らかにする。さらにその内容と像の図像を比較し、相互の関係を考察する。さらに、当時代の薬師信仰の造像として、その眷属である十二神将の造像のあり様

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