―53―;池田遙邨と京都画壇における古典研究も重要である。特に薬師如来像と同時ではなく、既にある像に追加して造立されたものがいくつかある。著名な例では、京都・広隆寺像が、康平七年(1064)に同寺の霊験薬師像のために、藤原資長が日光・月光菩薩像とともに造立したことが知られ、こうした造立の仕方の先蹤として、文献上で、藤原道長が治安二年(1022)に延暦寺根本中堂本尊のために造立したことが知られている。両薬師像とも信仰を集めたことが知られており、十二神将像の制作がそうした薬師像に対する当時の人々の関わり方や信仰のあり方の一端を示すものとして注目される。以上のように、平安時代中・後期における薬師信仰とその造像についての研究は、当該時代の末法の到来に対する仏教信仰の重要な一端を明らかにし得るものであり、そこに本研究の価値があると考える。研 究 者:倉敷市立美術館 学芸員 佐々木 千 恵池田遙邨は京都画壇の流れに属し、日展を中心に活躍した画家として重きをなし、文化勲章を受章したにもかかわらず、その独自性故に、ともすれば異端視されがちで、日本美術史の流れの中では位置づけが難しい画家といえる。その理由として、廃墟と見すぼらしい罹災民をリアルに描いた《災禍の跡》(1924年)を帝展に出品して審査員を驚嘆せしめた反骨精神、独自のスタイルを獲得するまで次々と画風を変えたカメレオンぶりそして遙邨様式ともいうべき、特異な視点で描かれた機知に富んだ構図の風景画等が、遙邨の画壇における異色性を際立たせているのであろう。その一方で、遙邨は時代と共に歩んだ画家とも言える。発表当初は世に受け入れられなかった初期の代表作《災禍の跡》を描いた大正末期は不況の中で労働問題が尖鋭化し、その影響でプロレタリア美術が隆盛し始める時期である。社会の空気に敏感な所のある遙邨が、貧しき人々を、熱意と同情心を以って描き、その作品の意義を画壇に正面から問うたのは、勇気があるとも無謀ともいえる行為だった。そうした試みが頓挫した後、伝統に学ぶべく遙邨が古典研究を行ったのは興味深い。日本画壇における昭和初頭の伝統回帰の流れは、ある種保守反動的な傾向を含んでいると言えるが、遙邨の場合必ずしもそれだけでなく、民衆への関心を多く含んでいる。
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