―54―イタリア・ファシズム政権期の芸術 ―1930年代の「航空絵画」を中心に―近世初期の風俗画に対する強い関心に始まり、その後の歌川広重への傾倒にも結びつく民衆への関心は、遙邨の独自性を形成する核の一つとなっている。遙邨の伝統回帰の軌跡を具体的に辿りながら、彼を取り巻く同時代人との相同性と異質性を明らかにすることで、大正末から昭和初頭という時代の大きな転換期に新たな光を投げかけると同時に、日本美術史における遙邨の位置づけに新たな視座を見いだす事が、本調査の目的である。研 究 者:千葉大学大学院 社会文化科学研究科 後期博士課程近年におけるファシズム政権期の芸術研究、特に英米圏のそれでは、政権下における一定の「モダニズム的な表現の容認」や「様式の多元性」について頻繁に指摘されている。申請者は、これらの研究動向を基本的に認めつつ、自身の研究を進める中で以下の2点についての考察が特に必要であると痛感するに至った。①モダニズムの要素を含んだ斬新なイメージ表現が、イタリアの「文明」を体現するものの一部として、しばしばアフリカの「野蛮」との対比を強調し、エチオピア戦争を頂点とする植民地征服を正当化する思想と結びついた事実。②また、ファシズム政権内の保守派に対しモダニズム芸術を擁護した、ジュゼッペ・ボッタイやディーノ・アルフィエーリといった国民ファシスト党の幹部が、植民地戦争を積極的に支持し、人種主義の強化を提唱していた事実。これらの点から申請者は、確かに従来の研究は政権とモダニズム芸術家との親密な関係を明らかにしたものの、両者をつなぐ重要な鍵として共通に存在する植民地主義や人種主義に対する姿勢を見落とす傾向があり、植民地主義とのつながりが考察されなければファシズム政権期の芸術の様相を捉えられないと考えるに至った。一方で、イタリアの植民地主義に関する従来の政治史的研究も、ファシズム政権が展開した征服戦争の過酷さや経済活動の実態の解明に集中しており、そのような動向に対して文化がいかなる役割を果たしたかについては、1990年代に研究が端緒についたばかりである。1909年に始まる未来派運動が、ナショナリズム、機械、そして戦争を最初から称揚太 田 岳 人
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