―57―17世紀ムガル皇帝の肖像画の画像の構想・制作過程がより明らかになる。以上の三つの問題を解明することによって、明治初期の美術及び美術教育、そして視覚表象文化の具体的側面が明らかになる。さらにそれらが西洋文化をどのように理解・摂取し、どのように変形したものであったかを検討することによって、日本文化の特質をより精密に描くことができるであろう。研 究 者:千葉大学大学院 社会文化科学研究科 後期博士課程このムガル皇帝の肖像画の先行研究では、なぜ新しい肖像画がジャハーンギール時代に求められたのかその理由を追究せず、加えて、ムガル宮廷の画家が新しい表現方法を獲得した方法についての具体的な分析がなされていないという問題点があった。申請者は今までの研究によって、ジャハーンギールが父アクバル(在位1556−1605)とは異なり、自分自身が世界の支配者として強く認識していたこと、そして世界情勢に目をむけ、ヨーロッパ諸国にも通用する文化を保有していることを示すため、イギリス王の肖像画を転用させて肖像画を制作させた背景をとらえることができた。先行研究では、このような皇帝の肖像画のもつ戦略的な性質に注目せず、また、ジャハーンギールの政治方針・外交政策の本質を理解していないため、従来の「無能な君主」とするムガル研究のなかで一般化されていた君主イメージを無批判に踏襲しつづけるという誤った解釈をくりかえしてきた。すなわち、これまでの解釈では、皇帝の肖像画を、政治的に無能であるジャハーンギールが、現実とは異なる、自身の理想とする「夢」の君主像を画家たちに描かせた個人的な絵画とみなしたのである。したがって、以上の先行研究の誤りを糺し、新たな観点から分析することにより、皇帝の肖像画が政治的な理由により生み出されたこと、そして皇帝の肖像画はジャハーンギール統治下における政治的文化的方針や、ムガル帝国の理念を色濃く表象しており、ムガル支配を正当化するまさに「プロパガンダ」として機能していたことを明らかにして、ジャハーンギールの肖像画の新たな解釈を提示したい。そして、この研究によって、いかに彼が視覚芸術を戦略的に政治的な効果を求めて用いていることを説明することは、ジャハーンギールの政治的手腕の高さを確認することであり、この池 田 直 子
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