鹿島美術研究 年報第24号
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―62―「無意味」性がデ・キリコに端を発するものではないかと考える。であるならば「無「語りえぬもの」を踏まえた上での語りであり、意味ではないか。そこではむしろ「無意味」への態度が問題となるのである。デ・キリコからタンギーへの「無意味」面上にあるものとされるのである。視覚イメージはテクストあるいはエクリチュールといった相において捉えられる。現在それらは、複雑に入り組みながら増殖する意味作用のネットワークとして捉えられる傾向にある。一方で、申請者が研究対象とするタンギーに関しては、こうした観点を適用することができない。タンギーのイメージは意味作用を増殖させるというよりも、むしろ解釈を無化し、言語を排そうとするからである。まさにこの理由によって、タンギーはシュルレアリスム研究における空白をなしてきた。しかしながら、シュルレアリスムのリーダー、アンドレ・ブルトンがタンギーを高く評価していることからも、美術史におけるシュルレアリスムという問題を考える場合、タンギーを欠くことは絶対にできない。あるいは、従来のシュルレアリスム研究は文学研究に偏ってきたが、言語化、テクスト化が不可能なタンギーのイメージは、文学研究においては決して捉えることができない。だからこそ、タンギーのイメージは、まさしく20世紀美術史の問題として扱われなければならない。そして申請者はタンギーの特殊性である徹底した言語との交換不可能性、つまり意味」という観点は、シュルレアリスムの視覚イメージ全体に有効なものである可能性が生じる。デ・キリコはタンギーの原点であると同時に、シュルレアリスム的イメージの原点でもあるからである。さらに、こうした言語との交換不可能性や無意味という観点は非常に20世紀的な問題でもある。20世紀の西欧思想は常に「語りえぬもの」を問題としてきた。故に、たとえばダダや抽象芸術がそうであるようにシュルレアリスムもまたそうした「語りえぬもの」との歴史的な関係性を抜きには語れない。シュルレアリスムは、抽象芸術以後の主題の復権として捉えられがちだが、それはやはりの系譜を検証することで、この点をより明確化できるのではないか。このことは、イメージを常に意味やテクストと交換しようという欲望を保持する美術史という言説の在り方を再考することにもつながるだろう。

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