―14―る。以上のごとく、本論文は「応徳涅槃」に星曼荼羅の図像の重なる要素のあることを具体的に示すなど、むろんその例証が恣意的との譏もまったくない訳ではないが、名作「応徳涅槃」研究に新たな視点を提示するとともに、仏画の研究に新しい解釈学的方法を開くものとして高く評価される。なお、優秀者として、深い中国画研究を視点に置きながら新知見を示した板倉聖哲氏(「十七世紀日本絵画における中国像(イメージ)―狩野山雪の場合―」)と、地道なニューヨークでの現地調査にもとづき着実な成果をあげた伊藤佳之氏(「終戦直後の福沢一郎作品に関する研究―ニューヨークでの展覧会を手がかりとして―」)の二人が選ばれた。(西洋美術部門)芳賀京子「古代ローマ世界の「マント式ヘルマ柱」角柱の上に人の肩から上が表された頭部式ヘルマ柱はギリシアのアルカイック時代に登場するのに対し、人の上半身が角柱にのるタイプのヘルマ柱は前5世紀後半以降に現れる。芳賀氏は、もっとも簡潔な分類法にしたがって、文字どおりのマントをはおった上半身だけでなく、裸体の上半身が角柱にのるタイプを併せてマント式ヘルマ柱と呼び、そのギリシア本土での起原および機能から、古代のローマ世界におけるその機能の一部継承と変容のありさまについて、考古出土品や台座の銘文や文献に基づく浩瀚な知見を駆使して、明快で説得力のある結論を導き出した。上半身の像主は、まずはヘルメスであるが、劇場やギュムナシオン(体育競技場)に置かれ、合唱競技や体育競技に関連し、またヘレニズム時代には獅子の皮をマント代わりにまとうヘラクレスが神域内やその境界線に、あるいは広場にばかりか、ギュムナシオンにも置かれていたことを跡付ける。その時代にはパン、プリアポス、ヘルマフロディトスなど豊穣を司る半神や神までがマント式ヘルマ柱として表された。マント式ヘルマ柱はギリシアおよびヘレニズム世界では信仰対象としての機能を帯びていたことが明らかである。芳賀氏は、古代ローマ世界ではそれが本来の宗教―ローマ人によるギリシア美術のパトロネージ―」(文責:有賀祥隆委員)
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