(1590〜1651)の中国に対する関心・憧憬は当時の他〜1649)の隠棲を重ね合わせる。図様は狩野派の始祖、正信(1434〜1530)の描いた―16―「絶句四首 其三」。そこに、賛者である「桃山ぶりの隠栖」木下長嘯子(勝俊 1569「楼閣山水図」(模本が現存)をそのまま継承しつつ軽妙さを強調し、上方に和歌賛を相を検討したい。「杜甫草堂図」(個人)の主題は唐時代の詩人、杜甫の草堂で、その典拠は杜甫の加えることで新たな形を模索した。そうした試みはある意味で俳画の趣を先取りしたものと見なすこともできよう。これに対して、「藤原惺窩閑居図」(根津美術館)の主題は同時代の日本人、江戸儒学の祖、藤原惺窩(1561〜1619)が洛北市原にあった北肉山荘で閑居する姿で、門下の堀杏庵(1585〜1642)と林羅山(1683〜1657)が賛を記している。「待花軒図」(出光美術館)、「陶弘景聴松図」(山梨県立美術館)といった前代の複数の詩画軸の図様を念頭に置きながら、さらに画中人物には隠逸の型を用いて象徴性を高め、遺像的な側面を加え、全体として明時代中国の文人書斎図にも通じるような佇まいを演出している。即ち、当時日本に流通していた古今の中国像を用いて日本を代表する儒学者のイメージを創出したのである。さらにここで最近実見の機会を得た「秋景山水図」(根津美術館)を紹介する。落款・印章共に「藤原惺窩閑居図」と一致し、寛永16年(1639)頃の制作と考えられる。やや短めの軸に描かれているのは中国の風景、秋の月下に夜空を見上げる一人の高士。画面右方に遠山を配し、全体として対角線を意識した構図を採っている。細部表現からして「杜甫草堂図」などより謹直に室町・狩野派の伝統的な表現を継承したものである。「杜甫草堂図」も惺窩門下の那波活所(1595〜1648)の旧蔵品で、これらの作品のるが、中でも、京狩野の2代目に当たる狩野山雪の画家たちに比べて非常に強かった。山雪本人が草稿を記した『本朝画史』画題における、中国像に対して正確さを求める学究的な態度はそれを象徴している。マニエリストとしての奇矯な形態感覚と理知的な構成、深い主題理解が止揚され生み出される山雪の造形は実に多様だが、ここでは所謂詩画軸形式の2点の位
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