鹿島美術研究 年報第25号
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〜1776)や与謝蕪村(1716〜1784)ら南画家に見られるそれと重なるものであり、そ(1946)12月、銀座の日動画廊で「ダンテ神曲地獄篇―17―期待された鑑賞者は同じネットワークに属していたといっても過言ではない。その上で、明らかな志向の相違が認められるのである。それは、後に登場する池大雅(1723の意味で改めて山雪の文人画家的な存在としての史的位置を確認することができよう。2.終戦直後の福沢一郎作品に関する研究―ニューヨークでの展覧会を手がかりとして―発表者:群馬県立館林美術館 主任学芸員 伊 藤 佳 之2点に過ぎない。国内にこれらの作品がほとんど残っていない最大の理由は、「コールマンなる米軍将校によって買い占められ、アメリカに持ち去られた」からであると、作家自身が述べている。しかし、この件に関する作家自身の言及が幾つもありながら、これまで本作品群に関する本格的な追跡調査は行われてこなかった。さらに、これらの作品が「ニューヨークで展覧され」たという記述や証言についても、確認作業はなされないままであった。本研究では、以上の福沢一郎作品に関する未確認情報を検証するとともに、併せてニューヨークで展覧された福沢作品の反響から、当時の米国、特にニューヨークにおける日本美術紹介の一側面を考察した。その成果は以下のとおりである。1.国内での調査によって、日動画廊の個展で発表された福沢作品の特徴を確認するとともに、これらの作品がある米軍将校によって買い占められ、アメリカで発表されたことを窺わせる情報を得た。昭和初期における前衛絵画運動の牽引者福沢一郎(1898〜1992)は、敗戦の混乱醒めやらぬ昭和21年による幻想より」と題した個展を開催する。この個展で彼は、裸体の人間像が荒涼とした大地の上で蠢く寓意的な群像表現を試みた。現在、この個展に出品されたと推定される作品のうち、日本国内で現存が確認されているものは、わずか

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