―20―の実物は前330〜320年頃にさかのぼるが、神の名が明らかな例はヘレニズム時代に入ってからで、小アジアのマイアンドロス河畔のマグネシア出土のヘルメス・テュコンの名が記されている。ヘルメスとヘラクレスはヘレニズム世界におけるマント式ヘルマ柱の2つの大グループを成し、その他にも幼児形のものが隆盛を極めた。マント式ヘルマ柱はローマという別の文化圏に移植されると、その像容・用途はいくつかの方向へと分岐していく。一つは、既存の全身彫像タイプの変形コピー。これは、別荘や庭園を飾る装飾彫刻として用いられた可能性が高い。第二に、建築装飾の一部として。この場合、カリアティドとの混交が認められる。そして第三に、ローマ世界土着の宗教と結びついたケース。これはプリアポスやヘラクレスといった、特定の神に限定され、田園風景の中に置かれる。こうした変容に、注文主たるローマ人の意志を読み取るのは、決して間違いではないだろう。当時、制作者たる彫刻家はそのほとんどがギリシア人であり、制作ジャンルももともとはギリシアの神像の一形態として生まれたものだったわけだが、ローマ人は注文主としてその変容を促し、新たな用途、さらには新たな像容を生み出した。彼らはギリシア美術をただ模倣しただけではなく、積極的にその変容に関わった。こうして生み出された新たなマント式ヘルマ柱は、さらにはギリシア世界へも逆に輸出される。あるいは、非常に特殊な形態でありながら、ルネサンス以降再び用いられるようになる。マント式ヘルマ柱は、ローマに伝播し、変容のプロセスを経ることによってギリシアの宗教に束縛されない新しい力を得たのである。herm、body hermという語も用いられている)。最初期映された神の像の一形態、マント式ヘルマ柱を取り上げる。ここでのマント式ヘルマ柱とは、腰のあたりまでが人間の姿、その下が角柱になった彫像を指し、多くの場合その上にマントをまとう。肩のあたりまでが、人間の形をしている「頭部式ヘルマ柱」に対置されるカテゴリーとして定義することにしよう(近年ではhip
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