―36―もつ意味を明確に理解することができるだろう。本研究は建築史の方法論を取り入れつつ、18世紀の連作の全体像を捉える点で新しい試みであり、最終的に近代への流れの中で、図像および様式の変化に関する総合的な見直しを目指している。研 究 者:秋田県立近代美術館 学芸主事 山 本 丈 志小田野直武が「秋田蘭画」を創造していく過程を、史実に沿って客観的に見ていくと、そこには西洋美術の画法習得という目的は浮かんでこない。もちろん藩主佐竹曙山が直武を選抜してその任務に就かせた事実もない。直武が藩から拝命したのは「銅山方産物他所取次役」というものであり、その役名は藩の産業振興を目的とした役務であると判断できるだろう。だからこそ、本草学者でもある平賀源内の下に直武が派遣されたと考えられるのである。ではなぜ、西洋美術の画法について小田野直武が研究、習得していく必要になったのか。そして、その時期はいつ頃になるのかということが重要なポイントとなる。これまで様々に取り上げられている諸説には小田野直武が平賀源内の下に行く安永2年以前のこととして、「秋田蘭画」は西洋美術の影響を受けた、写実性の高い南蘋派などの中国美術を受容していたとか、または陰影法による写生図が曙山の写生帖に見られるなど、直武とは直接関係なく曙山はすでに西洋美術への関心があり、その受容の下地ができていたと推定されている。しかしながら、事由となるものは時間的な精度に欠け、わずかに1年といえども、その違いは大きく意味合いを変えてしまう。なぜなら「秋田蘭画」が描かれた期間がどんなに長く想定しても20年に満たないからである。ことにエポックとなる安永2年を境として、秋田蘭画がその表現様式を確立して行くであろう期間はさらに短く、直武で6年、曙山でも10年ほどしかない。これまでの調査だけでは、これらの事跡についてのタイムラグを埋めきれなかった。これを少しずつ修正する作業を進めている。小田野直武作品の調査分析を通して、直武の動向をその周辺人物の年譜などによって補遺することで、「秋田蘭画」の成立の過程を考察したいと考えている。⑦ 小田野直武の洋風画 その成立と制作年についての考察
元のページ ../index.html#53