鹿島美術研究 年報第25号
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―57―平安時代後期から鎌倉時代における仏菩薩像光背に関する研究本調査研究では、徳川美術館蔵「豊国祭礼図屏風」(徳川本)について考察を行う。「豊国祭礼図屏風」は、慶長9年(1604)の豊臣秀吉七回忌にあわせて挙行された豊国社臨時祭礼のうち、そのクライマックスであった8月14・15両日の盛儀を描いた作品である。慶長11年(1606)に豊臣家により奉納された狩野内膳作品(豊国神社蔵、内膳本)を筆頭に、現在8例ほどが確認されている。いわゆる近世初期風俗画のなかでも、特定の行事を描いた例として極めて重要視される。これら数有る作例中、徳川本は内膳本とともに同画題を代表する作品として知られる。右隻に豊国廟前における騎馬行列と新儀能の奉納、左隻に方広寺大仏殿と豊国踊りを配する構図は、内膳本と高い共通性を有しており、かつ徳川本の筆者が内膳を師としたとされる岩佐又兵衛の筆に擬せられることもあって、両者の関係を含めたその存在は多くの注目を集めてきた。しかし、内膳本が制作年や筆者など制作背景を明らかにするのに対し、徳川本の細部に渡る精緻な描写や、上質な絵具や金銀をふんだんに用いた仕様は、しかるべき筋からの注文を予想させるものの、年代や発注者といった一切の事情は不明である。また筆者についても又兵衛の影響下による制作は明らかであるが、彼自身の関与をどの様に見るか、といった点でさまざまに議論されてきた。ことに近年、又兵衛や近世風俗画研究の進展により、新たな知見も提示されるなど、徳川本の研究は新たな段階を迎えたといえるが、未だ解明すべき点も多いと思われる。本研究の目的は、徳川本の制作年や背景等を考察することにより、その位置および意義を明らかにするものである。ひいては未だ不確定部分の多い又兵衛作品、および近世初期風俗画の編年、さらには工房を含めた又兵衛の活動の一端が明らかになることも期待される。研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士課程後期  海 野 啓 之仏像を意味づけるものは、像そのもののかたちだけではない。背後にあらわされた光背や、像の坐す台座、さらには堂の荘厳、伽藍配置に至るまで、像の置かれる空間を構成する様々な要素によって意味づけられている。換言すれば、仏像や仏堂などの造形物を通観することによって、当代の人々が求めた信仰世界が復元可能となる、と

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