鹿島美術研究 年報第25号
77/104

―60―>歌川貞秀の横浜鳥瞰図研究寺との思想的な相違は絵画作例にも反映されたはずである。本研究では、宋ばかりではなく高麗絵画にも焦点を当てることにより、日宋二国間同士の考察では見えてこなかった新しい知見が期待される。その研究成果は、美術史のみならず、仏教史や国文学の分野にも寄与するものと思われ、「華厳海会善知識曼荼羅」を考察する意義は大きいと考える。現在、「華厳海会諸聖衆曼荼羅」についての研究を進めている。「華厳海会諸聖衆曼荼羅」は明恵在世時に制作されたものと推測されており、「善知識曼荼羅」と構図を同じくする。さらに、『高山寺縁起』(1253年成立)により、「華厳海会諸聖衆曼荼羅」と「善知識曼荼羅」が高山寺持仏堂に向かい合わせに懸けられていたことが知られ、高山寺にあったという東大寺本の原本と「華厳海会諸聖衆曼荼羅」は対として作られたと推測される。ここで注目されるのが、「華厳海会諸聖衆曼荼羅」のイメージソースと考えられる「華厳経世主妙厳品」(韓国・国立中央博物館蔵、1350年)である。これは「世主妙厳品」の経文をそのまま写したものではなく、「世主妙厳品」に登場する聖衆の名前につづいて、「入法界品」に登場する善知識の名前を列記している。つまり、その一巻をもって、『華厳経』のうちの序章「世主妙厳品」と最終章「入法界品」の内容を合せたものとなっており、それはまさに、「華厳海会諸聖衆曼荼羅」と「善知識曼荼羅」を対面して懸けたという高山寺の状況に結びついてくるのである。本研究では、イメージの源泉を探るだけではなく、絵画の成立に不可欠な華厳経章疏や仏教儀礼に関するテキストから、高麗および宋における華厳経絵画の使用用途についても調査し、イメージとテキストの両側面から日本における華厳経絵画の流れを解明することを目指す。研 究 者:神奈川県立歴史博物館 学芸員  桑 山 童 奈貞秀作品の先行作例として横浜浮世絵の制作で長崎版画や海外の新聞挿絵が利用されていることがわかっている。鳥瞰図については鍬形ï斎や葛飾北斎の影響が指摘され、西洋の銅版画を所持していたことや、当時の地誌学者と交流があったことが伝えられるが、具体的な事例は殆ど紹介されていない。貞秀は複数の鳥瞰図において、自

元のページ  ../index.html#77

このブックを見る