鹿島美術研究 年報第25号
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(1592−1673)の日本渡来によって開かれた。徳川四代将軍家綱の1661(寛文元)年の―63―A‘摩伽羅’装飾の東漸 ―黄檗美術に見る霊獣の系譜―研 究 者:多摩美術大学 非常勤講師立命館大学大学院 文学研究科 博士後期課程  磯 部 直 希禅宗黄檗宗の大本山萬福寺は、中国福建省の萬福寺に住持していた隠元隆jことである。隠元は長崎の華僑たちの招きに応じて渡来し、長崎の興福寺に入山した。当初は長崎に数年滞在して後、帰国する予定であったという。しかし、当時の中国禅界の重鎮であった隠元の来日は、日本全国に大きな反響を呼ぶ。隠元のもとに雲集した修行僧や帰依者らの懇請によって、隠元は長崎から大阪に招かれる。隠元の支持者たちは京都の妙心寺の住持として招請することを計画したようであるが、これは成就せず、朝廷と幕府、双方の計らいによって、京都の南郊、宇治に隣接する近衛家の所領、大和田荘を与え、ここに臨済正宗黄檗派が開創されたのである。隠元は傑出した禅僧というのみならず、詩文や書にも秀で、明末中国の文人的教養を豊かに携えた人物であったという。隠元の渡来とともに、その弟子たちも陸続として京都萬福寺に来山し、いわゆる「鎖国」下の日本にあって、京都の南郊に忽然として明末清初の小中華空間が現出したのである。この黄檗山萬福寺を中心とする諸表象を、現在では総称して「黄檗文化」と称し、特に美術の領域に注目した場合、「黄檗美術」とも述べられてきた。1993年の京都国立博物館における「黄檗の美術」展などが契機となって、この領域に対する再読の流れは、この十数年高まり続けている。昨今、分野を超えて大きな流行を巻き起こしている伊藤若冲ら安永天明期の京都における、いわゆる「奇想」の画家たちの背後に、萬福寺の存在があったことは、周知の事実となりつつある。しかしながら、黄檗宗は日清戦争以降の日本における中国趣味の衰退と軌を一にして、日本の近代史上、長い時間を閑却のなかで過してきた。「黄檗文化」および「黄檗美術」は現在も多くの課題を残しており、さまざまな領域の研究者が参画して研究を推進すべき要があることは明白である。本山においても資料の収集と保管、研究活動の拠点として「文華殿」が設けられ、基本資料の公刊など、積極的に研究活動を支援する体制が整いつつある。本調査は、従来の黄檗宗研究において、深く探求されたことがない、‘摩伽羅’装飾の伝来と広がりについて考究することを企図した、初めての試みである。一連の調査により、その伝播と変容の経路を解明する上で、基礎となる

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