鹿島美術研究 年報第25号
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―65―C雲谷等益の山水画様式における金山寺図の受容研 究 者:九州大学大学院 人文科学府 博士後期課程  福 田 善 子本研究の目的は、江戸初期、雲谷派において山水画様式の変革を行った雲谷等益が、自己様式を成立させる上で、金山寺図という雪舟に由来する画題をいかに造形上の基盤として受容したかという問題を明らかにすることである。先行研究では、等益様式の形成に深く関与した図様についての具体的な考察はなされていない。また、雪舟再評価の気運が高まった近世初期に、江戸狩野派、京狩野派、雲谷派などにおいて金山寺のイメージを取り入れた作品がしばしば制作されたにも関わらず、図様に関する具体的な照査も行われていない。金山寺図は、狩野一渓『後素集』(1662年までに成立)によれば「名山川」に画題名が載るのみであり、作品の図様が流派や絵師によってそれぞれ一貫しない。よって本研究では、近世初期の金山寺図に対する絵師達の認識と受容のあり方について明らかにする。その前段階として、まず中国歴代の文人知識人や入明僧の詩文によって中国で語り継がれた金山寺のイメージを確認し、日本中世における金山寺イメージの受容と広がりを五山文学において把握する。次に中国から将来された版本や雪舟系統の作例、近世初期の金山寺イメージの引用が認められる作品群とを比較しながら、モチーフや画面構成について分類整理することで、絵師それぞれの認識と受容のあり方について明らかにする。また図様の比較を通して、日本における「西湖図・金山寺屏風」の発生時期や、江戸初期に隆盛をみせた金山寺を主題とした作品が需要された場についても併せて検討していく。以上のことを通して、等益は、名所絵や仙境としての金山寺イメージの引用や、単なる図様としての採用という枠組みを超え、独自の山水画様式を構築する際に金山寺図のイメージを重要な造形上の骨格として取り入れ、主山を空間の中心に据える大観的な山水画様式へと変革させるという解釈をみせたのではないかということを具体的に検討したい。その結果成立した等益様式が、狩野探幽に代表される山水画様式とはまったく異なる実相を形成し、江戸初期という諸派並び立つ時代において流派体制の安定に寄与した意義について検証したい。

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