鹿島美術研究 年報第25号
86/104

―69―佐賀県立名護屋城博物館蔵「肥前名護屋城図屏風」の研究かで創造される。同じ時代に、同じ社会に存在した「美術と能」を分断するのではなく同じ俎上にのせることで、制作された時点ではこめられていたにも関わらず、現在の美術史において見落とされてしまった事柄について、「能」を切り口に明らかにしようとする試みが「近代美術と能」の目的である。研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士課程後期  坂 本 明 子以下に「肥前名護屋城図屏風」の孕む問題点の提示と今後の構想について述べる。「肥前名護屋城図屏風」は従来、洛中洛外図の変形として、京都以外の都市が描かれた傍流として位置づけられてきた。確かに「肥前名護屋城図屏風」には「洛中洛外図上杉本」との連続性が指摘されており、建築物の描写や人物表現において先行する作例との連続性が確認される。しかし申請者が注目したいのはその風景描写である。「肥前名護屋城図屏風」に描かれている風景は、名護屋地域の現状と比較するとかなり写生的であることが指摘されており、画面上に複数の視点を組み合わせた写生的で立体的なランドスケープを構築している。こうした風景描写には、俯瞰視の中に平面性を確保する洛中洛外図とは違う、新しい要素の流入が予想されるだろう。そこで同時代の都市図を広く概観してみると、はるか壱岐を望むほど高い視点を設定し、海を手前に、都市をその奥に配置し、水上に船が描かれるという構成は、「萬国絵図屏風」(三の丸尚蔵館蔵)に描かれる同時代のヨーロッパ都市図の構成に似ていることに気付く。「萬国絵図屏風」に描かれる都市図の原本であるとされる『世界の舞台』(1570年刊)は天正遣欧使節がイタリアで贈呈され日本に持ち帰ったことが史料上確認されている。そして、天正遣欧使節が帰国後最初に謁見したのが豊臣秀吉であることを考えれば、秀吉周辺には西洋の図様がかなり流入していたことが想起されるのではないだろうか。「肥前名護屋城図屏風」にもそうした影響関係が考えられるのであれば、この屏風は鳥瞰的な図法を用いて都市を描いた最も早い時期の作例ということになると思われる。一方で、西欧の都市図と「肥前名護屋城図屏風」の一番の違いは、人間が描かれているか否かという点にある。西欧の都市図が都市の顕彰を目的として人間を描かないのに対し、洛中洛外図は都市の風俗図としての性格を有し、都市で生活する人々の様

元のページ  ../index.html#86

このブックを見る