鹿島美術研究 年報第25号
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―75―G徳川黎明会所蔵『豊国祭礼図屏風』の研究号、2005年8月、國華社・朝日新聞社)によって、中国唐宋間に於ける来迎図・来迎像の成立と展開に関する一視点を持った。これを承け、日本の11~14世紀間に於ける浄土教絵画史を説く一節として、本研究を位置づけたい。研 究 者:京都府教育庁指導部文化財保護課 技師  筒 井 忠 仁徳川本については、これまでの研究において、大きく分けて二つの立場から議論がなされてきた。一方は、この屏風を元和年間(1615〜1623)の初めの制作とし、又兵衛福井移住後のパトロンであった松平忠直のために制作されたとする立場であり、他方は、慶長年間(1596〜1614)の作例で、豊臣家滅亡以前のものであるとする立場である。前者は様式的特徴からこの屏風が慶長年間には遡りえないというのがその論拠であり、後者は、秀吉を顕彰するためのイベントを描くことが徳川政権下では許されないという認識が議論の出発点となっている。だが、いずれの立場も、様式または歴史的背景のみに依拠しており、それら全体を整合的に説明してはいない。また、描かれた細部の意味を考慮に入れていないのも事実である。例えば、左隻中央に大きく描かれた大仏殿だけが、金砂子によって装飾されているのはなぜなのか、あるいは、右隻の騎馬行列が行き場を失って右往左往するのはなぜなのか、そのような点についてこれまでの研究が正しく指摘してきたとは言い難い。この屏風には何が描かれているのか、本研究の目指すところは、そうした描写内容を読み解くことで、本作品の持つ固有の意味を確認することにある。また、近年歴史学の分野において、関が原戦役から大阪の陣までの間、豊臣家が大名たちを自らの陣容に加えるために、様々な活動を行っていたことが明らかにされつつある。申請者は、徳川本が豊臣家から恩顧の大名へと政治的な意味合いを込めて下賜されたものであると考えているが、そのことが立証されるならば、こうした歴史学研究の流れに新たな事例を加えることになろう。さらに、本屏風の制作年代が明らかになる事は、この屏風の作者と考えられている岩佐又兵衛の画業を考える上でも、極めて重要な意味を持つ。なぜなら、この画家の慶長期と確認される作品は他に知られていないのであり、画業の最初期に位置づけられる、貴重な作例としての意義を本屏風に付与することになるからである。

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