―77―J円山応挙の写生図に関する調査研究さらに文様の種類が増加していくこともまた自然なことだといえる。これに対して、以前に表されていた文様が、描かれなくなるという例もある。明代洪武期の景徳鎮窯磁器における動物文や人物文等の不在がその最たる例であり、これは先行研究により厳しい官制によるものだと考えられている。また元青花に多く描かれた蓮池水禽文が明初にはなくなり、その代わりに束蓮文が増えるのは、陶磁器に適した文様へと淘汰された結果と考えられている。このように、ある一時期だけ姿を消す文様、あるいは以後表されなくなる文様を考察することは、その陶磁器の特性やその時代性を理解するのに有益である。そこで、申請者が注目したのは唐子文に代表されるいくつかの文様である。唐子文は、両宋代から元代初期にかけて特に流行した中国の伝統的な吉祥文様で、元青花焼造以前は景徳鎮窯青白磁や、耀州窯青磁、磁州窯系鉄絵に多くの作例がある。しかし、元青花では描かれず、明初永楽期になって再登場する。元青花焼造以前に非常に流行した唐子文が、青花磁器の隆盛とともに一切姿を消し、永楽期になり再流行することは、不自然であり、そこに王朝や景徳鎮自身の意図が存在したと考えられる。いかなる理由により元末に唐子文は消滅し、永楽期に再び流行することになったのであろうか。この問題を唐子文などのシンボリズム、モンゴル民族と漢民族との違い、つまり宗教や文化の違いに着目することで、元代景徳鎮窯の位置づけを行うことができる。さらに明永楽期に定型化した唐子文が表される意味を、景徳鎮官窯設置年代とも関連づけて考察することで、景徳鎮官窯が明代永楽期の時点で成立していたか否かを明かにできるものと期待される。研 究 者:東京藝術大学大学院 美術研究科 博士後期課程 加 藤 弘 子本研究は、円山応挙筆として現存する写生図について精査し、共通図を含む作品同士の関係性を探るとともに、応挙の写生図が模写され粉本化された意義を確認し、江戸時代における「写生」の意味を明らかにすることを目的とする。研究対象の作品③「写生帖」4帖(東京国立博物館所蔵)の中には、渡辺始興の鳥類写生図を応挙が模写した「禽虫の図」が含まれ、他の流派との交差上に位置する作品として重要であるが、先行研究はごく限られているのが現状である。そもそも、応
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