鹿島美術研究 年報第25号
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―78―K『ベスティアリウム』写本挿絵の研究 ―挿絵サイクルの系譜について―挙の「写生」については、当初、本画作品を中心として研究が進められてきた経緯がある。応挙の本画作品には、写生図に登場するモチーフがほぼそのままの姿で見出せるため、たとえ本画中に中国画を手本とした要素があったとしても、写生を本画に反映させたものとして、一貫して高く評価されてきた。その一方で、写生図の模写図、つまり、手本としての粉本とみなされる図については、写生画派の円山派においても応挙没後は粉本に頼らざるを得なかったのではないかという、やや否定的な見解もみられる。こうした先行研究をふまえ、本研究では、写生図を中心に研究を進めることで、本画作品を中心とした研究だけでは見えにくい側面、すなわち、写生図が粉本化されることの意義に光をあてたい。応挙の写生図について特筆すべきは何よりも「形態の正確さ」であり、画事においてこのような視覚の大幅な変化が広く浸透した事実を鑑みると、粉本の効用は軽視できないものがある。先学が指摘するとおり、応挙の視覚は近現代まで流れ込んでいることも事実である。このような写生図の模写によって応挙の視覚が共有され、一時的な現象としてではなく、長期にわたって、視覚が更新されていった意義について再確認し、評価を試みたい。最後に、本研究の意義をあげるとすれば、一事例を取り上げた作品研究であるだけでなく、同時に、従来の写生図研究のあり方を見直す点にあるといえるだろう。本研究の方法や成果は、他の写生図研究のみならず、原本を失った模本を扱う研究にとっても、有益なものとなることが期待できるであろう。研 究 者:ナポリ第二大学文哲学部大学院 文化領域研究科 在籍東京藝術大学 非常勤講師             長 友 瑞 絵『ベスティアリウム』の母胎となった『フィジオログス』は、2世紀にアレクサンドリアでテキストが成立し、5世紀頃ラテン語へ翻訳されたと推定される。テキストの系譜はこうしてまずギリシア語とラテン語に大きく分岐したが、オリジナルのギリシア語のテキストが数種存在していたため、初期ラテン語テキストが複数存在することとなった。これらはカイエ(1874)、カーモディー(1941)によってY、A、B、Cの4つに分類されており、これらのうち最も多数を占めるBバージョンから12世紀前

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