約200年を経た17世紀初頭の京都神護寺では、再興事業にあたって威風堂々たる―16―「足利義持像」の像容が、より知名度のある足利義満にこそふさわしいとされた。18像で、後継者である足利義持によって発注され、親義持派の守護大名や寺社、僧侶た用することで、みずからの政権の正当化・安定化をはかろうとする政治構想をもっていた。肖像制作は、将軍就任まもない義持にとって父義満の莫大な遺産をたくみに利用した高度な政治戦略であったと考えられる。こうして義持によって制作された2つの肖像画は、いずれも天空の地蔵菩薩を描き込むという共通点をもっている。春日本の画面上部には、雲に乗って来迎する春日地蔵が描かれている。神護寺本の画面上部の小さな円相は、賛文中の「即勝軍菩薩身」をさし、義持が勝軍地蔵の変化身であることを表象したものであった。これらの地蔵像は、直接には発注者である足利義持の地蔵信仰の一端を示すものであるが、足利氏のみならず室町社会に深く浸透し、同時代の日輪イメージの流布と密接に関わるものであった。しかし、義持死後、足利将軍家嫡流が弟の義教流へと継承されたことで、傍系にすぎない義持の知名度はしだいに薄れていった。他方、義満は、幕府政治の礎を築き、北山金閣に独自の文化を花開かせた人物として、後世に広くその名を知られることになる。100年余を経た16世紀初頭の奈良春日社では、「足利義満像」として制作されたはずの春日本が、発注者である足利義持の肖像画として伝承されるようになっていた。世紀に入ると、神護寺の虫払いや開帳・勧化により全国的な知名度を得て、とり違えられた両者の歴史的イメージは決定的なものとなった。こうして義持の肖像制作は彼方に忘れ去られ、ただ天空の地蔵菩薩を描く特異な肖像画だけがその痕跡をとどめることになったのである。2.カラスとトスカーナ大公―シエナ、フォンテジュスタ聖堂《ペストの聖母》をめぐって―発表者:西南学院大学 国際文化学部 准教授 松 原 知 生シエナの町の北部に位置するフォンテジュスタ聖堂は、霊験あらたかとされる中世の聖母子像を祀るために建造された聖堂であり、初期ルネサンスからバロック期にか、、ちに下賜されたものと考えられる。義持は当初、自身の寿像、、とともに義満の遺像を利
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