―17―誰による、そのような政治的メッセージを観者に伝達しようとしているのかを考察したい。まずその様式を分析してみると、作者にとっての造形的な参照点がヴァザーリとブロンズィーノ(特にその晩年様式)にあったことが分かる。また、これまで看過されてきた一史料の読解から、本図は1570年頃に制作されたものと推測される。その様式は、同時代のシエナ画壇の動向と何ら関係をもっていないため、この絵はシエナ人ではなく、フィレンツェの宮廷周辺で活動していた一画家によるものと考えられる。次に図像面に目を向けると、画面中央のシエナの都市景観に、シエナ人たちが描くことを嫌ったサンタ・バルバラ要塞(フィレンツェ人が建造した同市によるシエナ支配の象徴)が大きく場を占めていること、また、フォンテジュスタ聖堂の位置が逆転して描かれていることから、作者がシエナ人ではないという仮説が補強される。さらに、作品の構図を特異なものにしている図像モチーフが、天上の聖母を指さす画面下部中央の半裸体の人物である。ひときわ大きく描かれたこの人物は、鋭い視線でこちらを見据え、口を半ば開いて何かを我々に話しかけているように見える。その足許には小さなライオンが座り、画面の左隅に描かれたカラス(疫病の象徴?)を威嚇している。発表者は、この人物は当時トスカーナ大公としてシエナを支配していたメディチ家のコジモ1世その人であると考える。では、なぜ当時の為政者が、いくぶん威圧的な様子で宗教画の中に姿を現しているのだろうか。この点を理解する上で重要なのは、1479年のポッジョ・インペリアーレの戦いにおけるフィレンツェに対するシエナ側の勝利が、このイコンによる奇跡に帰されていたという事実である。長きにわたる戦争を経てようやく1555年にシエナを支配下に置いたコジモ1世にとって、かつて自国に敗北をもたらしたとされる聖母像にけてのシエナの画家たちが制作した多数の絵画が堂内を装飾している。本発表ではそのうち、従来ほとんど顧みられることのなかった16世紀の作者不詳の作品、ペストに苦しむシエナ市民の頭上に聖母が顕れ疫病を鎮静化する様子を描いた《ペストの聖母》を採り上げる。最初に様式・図像の両面におけるその特異性を明らかにし、次いでそれらの特異性を、作品が制作された歴史的コンテクストの中に据え直すことで、それが
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